バスカヴィル家の犬 8 | バスカヴィル家の犬 9 | バスカヴィル家の犬 10 |
私はこの物語を語る上で、我々の生活をこんなにも長い間陰らせ、こんなにも悲劇的に終結を迎えたこの事件の恐怖感と漠然とした不安を、読者と共有できるように心がけてきたが、そろそろこの奇妙な話の結末部分に移ることにしよう。犬の死の次の朝、霧は晴れていた。そして私たちはミセス・ステイプルトンに案内され、彼らが沼地を抜ける道を見つけていた場所に行った。彼女が一生懸命、嬉しそうに夫の跡を案内するのを見た時、私たちは、この女性の生活がどれほど恐ろしいものだったかが理解できるような気がした。私たちは彼女をしっかりとした泥炭の細い半島に残して別れた。その半島は、広大な沼地に向かって先細りになっていた。その先端部分から向こうに、あちこち小さな枝が差してあった。それは、外部からの侵入を阻む汚い沼地や緑の皮膜に覆われた穴の間を縫ってイグサの茂みから茂みへとジグザグに進む道しるべとなっていた。生い茂るアシと青々としたどろどろの水草が、腐った臭いと濃い腐敗ガスを私たちの顔に向けて放っていた。間違って足を踏み出すと、腿の深さまで暗い震える沼地の中にめり込み、何ヤードにもわたって足の周りに柔らかなうねりが起こった。歩くたびに、かかとがしつこい力で引っ張られた。沈み込んだりしようものなら、まるで悪意ある手がこの胸の悪くなるような深みの中へと引っ張っているかのようだった。人間を引き込もうとする力は非常に不気味で、意思があるようにさえ感じられた。一度だけ我々の前に誰かがこの危険な道を通った痕跡が見つかった。泥の間から顔をのぞかせていたワタスゲの草むらの間に何か黒い物体が突き出ていた。それを捕まえようと道から踏み出した時、ホームズは腰まで沈み込んだ。そしてもし我々がその場にいて引っ張り出さなかったら、彼は二度と固い地面に立つ事は出来なかっただろう。彼は古い黒靴を掲げた。内側の革に「メイヤーズ、トロント」と印字されていた。
「泥風呂に入った価値はある」彼は言った。「これは我らが友人サー・ヘンリーのなくなった靴だ」
「ステイプルトンが逃げる時に投げ捨てたんだな」
「その通り。彼は犬に跡を追わせるためにこれを使った後、手に持っていた。彼は全てが終わったと分かった時、靴を握り締めたまま逃走した。そして逃げる途中、この場所で投げ捨てた。少なくとも彼が無事にここまで来たのは確かだな」
しかし、色々と想像する余地が残されてはいるが、これ以上の事は知りえない運命だった。泥が急速に滲み出して来るので沼地で足跡が見つかる可能性はない。しかし遂に沼地を越えて、やや堅い地面に到達した時、私たちは懸命に足跡を探した。しかしどんなに僅かな痕跡も目にとまらなかった。もし大地が真実を語っているなら、昨夜、霧の中をもがきながら進んでいたステイプルトンは、目的地である島の避難場所には到達しなかったことになる。この広大なグリンペン沼地のどこか懐深くに、この冷酷で残酷な心を持った男は広大な沼の汚い泥の下に飲み込まれて、永遠に埋まっている。
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