コンプリート・シャーロック・ホームズ
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午後七時、我々三人はコーポレーション街を会社の事務所に向かって歩いていた。

「約束の時間の前に行っても何にもなりません」ホール・パイクロフトは言った。「ピンナーは明らかに私に会うためだけにやって来ています。彼が言った時刻以外、あの場所には誰もいません」

「意味深長ですな」ホームズは言った。

「ほら、言ったでしょう!」ホール・パイクロフトは叫んだ。「私達の前のあそこを歩いています」

ホール・パイクロフトは道路の反対側を忙しそうに歩いていく、背が低く黒髪で身なりの良い男を指差した。私達がじっと見ていると、ピンナーは道越しに一人の少年を見ていた。その少年は大声で夕刊の最新版を売っていた。ピンナーは馬車や手押し車の間を駆け抜けて近付くと、新聞を一部買った。その後、その新聞を手に持って戸口に消えた。

「あそこから入りました!」ホール・パイクロフトは叫んだ。「彼が入ったところが会社の事務所です。一緒に来てください。できるだけ何気ない感じで紹介してみます」

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ホール・パイクロフトの先導に続いて、我々は五階まで上った。そして半開きの扉の外まで来ると、ホール・パイクロフトはその扉を叩いた。中から入るようにという声がして、ホール・パイクロフトが言っていたように、家具の無いがらんとした部屋に入った。一つのテーブルに、通りで見かけたピンナーが夕刊を前に広げて座っていた。そしてピンナーが私達を見上げた時、私はこれまでにこんな顔を見たことがないと思った。その顔には苦悩があった。そして、大部分の人間が一生の間に一度も経験しない恐怖のような、苦悩以上の何かがその顔に刻まれていた。ピンナーの額は汗で光っていた。頬はだらりとし、魚の腹のように青白い顔色で、目は荒々しく睨みつけていた。ピンナーは自分の社員の顔を忘れたかのような目で見た。ホール・パイクロフトが驚きの表情を見せていたので、これはピンナーの普段の様相とはまるで違うことが分かった。

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「具合が悪そうですが、ピンナーさん!」ホール・パイクロフトは叫んだ。

「いや、気分は極めていいです」相手は明らかに自分を立て直そうという努力をして、話す前に乾いた唇を舐めながら答えた。「あなたが連れて来たこちらの紳士はどなたですか?」

「こちらがバーモンジーのハリスさん、あちらがこの街のプライスさんです」ホール・パイクロフトはスラスラと話した。「私の友人で経験もあります。しかし最近仕事にあぶれていまして、もしかするとあなたならこの会社の社員に空きを紹介してくれるかもしれないと思ったもので」

「なるほど!なるほど!」ピンナー氏はぞっとするような笑顔で叫んだ。「ええ、間違いなくあなた方のお役に立てると思いますよ。専門はなんでしょう、ハリスさん?」

「私は会計士です」ホームズは言った。

「なるほど、その職種の人材は欲しいですね。そしてあなたは、プライスさん?」

「事務員です」私は言った。

「きっとあなたを我が社でお雇いできると思います。会社で結論が出れば、直ちにお知らせいたします。さあ、そろそろ出て行ってもらえませんか。お願いだから一人にして下さい!」

最後の言葉は、まるでなんとか踏ん張ってきた自制心が突然粉々に砕け散ったように、口から飛び出した。ホームズと私は目を合わせた。そしてホール・パイクロフトはテーブルに一歩踏み出した。

「お忘れですか、ピンナーさん。私はあなたから指示を受けるために待ち合わせして、ここまで来たのです」ホール・パイクロフトはは言った。

「確かに、パイクロフトさん、確かに」ピンナーは穏やかな調子に戻っていた。「あなたはここでちょっとだけお待ちください。友人の方も一緒に待っていて頂いて構いません。三分後には、あなたの仕事の件に戻りますので、差し支えなければお待ちください」ピンナーは非常に礼儀正しく立ち上がり、我々に一礼し、部屋の奥にある扉から出て行くと、その扉を閉めた。

「今のは何だろう?」ホームズはつぶやいた。「こっそり逃げ出そうとしているのでは?」

「できません」パイクロフトは答えた。

「なぜそう分かります?」

「あの扉は奥の部屋に続いています」

「出口はない?」

「ありません」

「家具がありますか?」

「昨日は何もありませんでした」

「では一体彼は何をしているのだろう?この事件には分からないことがあるな。あのピンナーという男は、恐怖で気が狂いそうな様子だった。彼は何に震え上がったというのか?」

「我々が刑事だと疑っているとか」私は言った。

「それだ」パイクロフトは叫んだ。

ホームズは首を振った。「彼はこちらを見て真っ青になったのではない。我々が入った時すでに真っ青だった」ホームズは言った。「可能性としてはただ・・・・・」

ホームズの言葉は内扉の方向から聞こえた鋭いドン・ドンという音で遮られた。