コンプリート・シャーロック・ホームズ
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扉が開き、ボーイが背の高い綺麗に髭を剃った男を招き入れていた。硬く真剣な表情は、馬や馬手を管理している人間にのみ現れるものだ。ジョン・メイソンは多くの馬と人を監督下に置いていたが、彼はその任にふさわしいように見えた。彼は冷静沈着な態度で頭を下げると、ホームズが手を振って示した椅子に座った。

「私の手紙は届きましたか、ホームズさん?」

「ええ、しかし依頼内容は何も書かれていませんでしたね」

「手紙に細かい事まで書くのは、ちょっと抵抗がある内容です。それに非常に込み入った話なんです。直接お会いしなければ説明のしようがありませんでした」

「それでは、どうぞご自由にお話ください」

「まず最初に、ホームズさん。私の雇用主のサー・ロバートは気が狂ったと思います」

ホームズは眉毛を吊り上げた。「ここはベーカー街で、ハーレイ街ではありません」彼は言った。「しかしなぜそうおっしゃるんですか?」

「いいですか。一つや二つ奇妙な事をするというのなら、何か意味があるかもしれません。しかしやっている事すべてが奇妙な場合、おかしいと思いはじめます。ショスコム・プリンスとダービーで彼の頭がおかしくなったのだと思います」

「それはあなたが調教している馬ですか?」

「イングランドで最高の馬です、ホームズさん。誰も知らなくても私には分かります。あなた方が名誉を重んじる紳士で、口が堅いと分かっていますので、これからありのままをお話します。サー・ロバートは今度のダービーで勝つ必要があります。彼は完全に深みにはまっていて、これが最後のチャンスです。彼の浮沈はすべてこの馬にかかっています。そして素晴らしいオッズにです!今は40台ですが、彼がこの馬の馬券を買い始めた時は100近くありました」

「しかし、もしその馬がそんなに素晴らしいなら、どうしてオッズが高いんですか?」

「一般の人間はどれくらいいいかを知らないんです。サー・ロバートは予想屋より一枚上手です。彼は目くらましにプリンスの異母兄弟の馬を持っています。二頭は見分けがつきません。しかし、ギャロップで走れば一ハロンで二馬身の差があります。彼はその馬とダービーのことしか考えていません。彼の人生すべてがそれにかかっています。彼はレースまで高利貸しに待ってもらっています。もしプリンスが負けたら、彼は破産です」

「命がけのギャンブルのようですね、しかしその狂気というのはどこに出てくるんですか?」

「まあ、とにかく、彼を一目見さえすればわかります。夜ちゃんと寝ているようには思えません。四六時中厩舎に来ています。恐ろしい目つきです。彼の神経には完全に荷が重過ぎます。それに、あのビアトリス夫人に対する態度!」

「ほお!どういうことです?」

「あの姉弟はずっと非常に仲が良かったんです。あの二人は同じ趣味を持っていました。彼女は弟と同じくらい馬を愛していました。毎日同じ時刻に彼女は馬車に乗って馬を見に行ったものでした。そして、何よりも彼女はプリンスがお気に入りでした。砂利道の車輪の音を聞くとプリンスは耳をそばだてたものです。そして毎朝小走りで馬車まで行って砂糖の塊をもらいました。しかしもうすべて終わりました」

「なぜですか?」

「彼女は馬に対する興味をすべてなくしたようなんです。彼女が『おはよう』さえも言わずに厩舎を馬車で通り過ぎるようになってから、今日で一週間になります」

「あなたは、二人にいさかいがあったと思いますか?」

「それも激しい、荒々しい、とげとげしいいさかいだったと思います。そうでなければ彼女が我が子同然に可愛がっていたペットのスパニエルを人にやったりしますか?彼は数日前、犬を三マイル離れたクレンダールのグリーン・ドラゴンを管理しているバーンズ老人に渡しました」

「それは確かに妙な感じですね」

「もちろん夫人は心臓が弱く水腫もあるので、二人が一緒に出歩くことは考えられませんでした。しかし彼は毎晩、夫人の部屋で二時間過ごしました。彼ができる限りの事をしたのも分かります。彼にとって姉は得がたい友人でしたから。しかしそれもすべて終わりました。彼は夫人には決して近寄りません。そして夫人はそれがこたえています。夫人は考え込み、むっつりし、酒を飲んでいます。ホームズさん、浴びるように飲んでいます」

「この仲たがいの前に、彼女は酒を飲んでいましたか?」

「そうですね、一杯くらいは飲んでいました。しかし今ではしょっちゅう一晩で丸一本飲み干します。執事のステファンズがそう私に話していました。すべてが変わってしまいました、ホームズさん。そして何か非常に嫌な感じがあるんです。その上、主人は古い教会の地下聖堂で夜中に何をしているんでしょうか?そこで会っている男は誰なんでしょう?」

ホームズは両手をこすり合わせた。

「お続け下さい、メイソンさん。どんどん面白くなってきました」

「サー・ロバートが出かけるのを目撃したのは執事でした。夜の12時でひどい雨が降っていました。だから次の夜、私は家で起きていました。案の定、主人はまた出て行きました。ステファンズと私は彼の後をつけていきましたが、これはびくびくものでした。もし彼に見られたらまずいことになるからです。彼はかっとなると誰であろうと見境なしに殴る恐ろしい男です。だから私たちはしり込みしてあまり近づきすぎないようにしましたが、うまい具合に彼の後をつけて行くことができました。彼が向かっていたのは幽霊地下聖堂でした。そしてそこで一人の男が彼を待っていました」

「その幽霊地下聖堂とは?」

「敷地の中に古い崩れた礼拝堂があります。あまりに古くて誰もいつの時代のものか知りません。その下に、このあたりの人間が悪名をつけた地下聖堂があります。そこは昼でも暗く、湿って、寂しい場所です。夜にそこに近寄る神経を持っている人間はこの地方ではほとんどいません。しかし主人は平気でした。あの人は人生で怖いものなしです。しかし夜中にあそこで何をしているんでしょうか?」

「ちょっと待ってください!」ホームズが言った。「そこにはもう一人の男がいたと言いましたね。それはあなたの部下の御者か、誰か家の人間に違いないでしょう!誰がそこに行ったのか突き止めて聞いてみればいいだけではないですか?」

「私の知らない人間でした」

「どうしてそう言えるんですか?」

「彼を見たからです、ホームズさん。その二日目の夜の事でした。サー・ロバートは戻ってきて私達の側を通り過ぎました。その晩はちょっと月が出ていたので、私とステファンズは二羽の子ウサギのように茂みの中で震えていました。しかし私たちは後ろでもう一人の男が歩いていく音を聞きました。彼の方は怖くありません。だから私たちはサー・ロバートが去った後、月夜に散歩しているような振りをして、できる限り無造作に、何気なく、楽しげに彼のすぐ側まで行きました。『やあ、そこの人!誰なんだい?』私は言いました。彼は私たちがやって来る足音を聞いていなかったようです。だから彼は地獄から悪魔が出てくるのを見たかのような顔つきで肩越しに振り返りました。彼は叫び声を上げ、闇の中を全速力で去っていきました。あれほど走れるとは!恐れ入りました。一分で彼は姿を消し足音も聞こえなくなりました。そして彼が誰か、何をしている人物か、全く分かりませんでした」

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「しかし月明かりではっきり彼を見たんですね?」

「ええ、あの黄色い顔に誓って ―― みすぼらしい犬、とでも言いましょうか。サー・ロバートとどこに共通点があるんでしょうかね?」

ホームズはしばらくの間考え込んで座っていた。

「ビアトリス・ファルダー夫人と仲がいいのは誰ですか?」彼はついに訊いた。

「キャリー・エバンズという彼女のメイドがいます。この五年間彼女と一緒です」

「もちろん仲がいいのですね?」

メイソン氏は居心地悪そうにもじもじした。

「仲がいいのは確かです」彼はついに答えた。「しかし誰とは申し上げませんが」

「ああ!」ホームズが言った。

「秘密を漏らすことは出来ないんです」

「よく分かりました、メイソンさん。もちろん、状況は明白そのものです。サー・ロバートに関するワトソン博士の説明で、どんな女性も彼から安全ではないということが分かります。弟と姉の間のいさかいはそこに原因があるかもしれないと思いませんか?」

「ええ、このスキャンダルはずっとあからさまでしたのでね」

「しかしもっと前に分かっていてもいいでしょう。彼女が突然それに気がついたと仮定してみましょう。彼女はこの女性を追い出したい。弟はそれを許さないでしょう。病弱で心臓が弱く歩き回る事が出来ない人間は、意志を貫徹する手段がない。憎まれたメイドはまだ彼女と一緒にいる。夫人は話すことを拒み、不機嫌になり、酒を飲み始める。サー・ロバートは怒りに任せて彼女のペットのスパニエルを彼女から離す。これで全部つじつまが合いませんか?」

「ええ、そうかもしれません、 ―― これまでのところは」

「その通り!これまでのところは。これら全部が一体夜に古い地下聖堂に行く事と何の関係があるのか?これを我々の筋書きに当てはめることができません」

「そうですね、そしてそれ以上に当てはめる事が出来ないものがあるんです。なぜサー・ロバートは死体を掘り出したいんでしょうか?」

ホームズは急に身を起こした。

「これは昨日分かったばかりのことです、 ―― あなたに手紙を書いた後に。昨日、サー・ロバートはロンドンに出かけていましたので、ステファンズと私はあの地下聖堂まで行きました。そこはすべて整然としていました。ただ部屋の片隅に人間の死体の一部がありました」

「警察に届けたんですね?」

訪問者は不気味に微笑んだ。

「それがですね。あれはあなたの興味を引くものではないと思います。ミイラの頭部と何本かの骨だけです。千年は経っているかもしれませんね。しかし以前にはあの場所にはありませんでした。私は誓って言えますし、ステファンズも同じです。骨は隅にばら撒かれていて上に板がおいてありました。しかしその隅には以前からずっと何もありませんでした」

「それをどうしたんですか?」

「そのままにしておきました」

「それは賢明でした。サー・ロバートは昨日出かけたとおっしゃいましたね。帰ってきているんですか?」

「今日帰ってくるはずです」

「いつサー・ロバートは姉の犬をあげてしまったんですか?」

「今日で一週間になります。あの犬は古い井戸小屋の外で鳴いていて、サー・ロバートはその朝、いつものかんしゃくを起こしました。彼が犬をつかみ上げたので、私は殺してしまうと思いました。その後彼はジョッキーのサンディ・ベインに犬を渡し、二度と見たくないからその犬をグリーン・ドラゴンのバーンズのところに持って行けと言いました」

ホームズはしばらくの間黙って考えながら座っていた。彼は一番古く一番汚いパイプに火をつけた。

「この件についてあなたが私に何をして欲しいのか、まだよく分からないですね、メイソンさん」彼はとうとう言った。「もっと明確にしてもらえませんか?」

「多分これでもっと明確になるでしょう、ホームズさん」訪問者が言った。

彼はポケットから紙を取り出して、慎重にそれを広げ、こげた骨の破片を見せた。

ホームズは興味深そうにそれを調べた。

「どこで手に入れたのですか?」

「ビアトリス夫人の部屋の下の地下室にセントラルヒーティングの炉があります。しばらく火は入っていませんでしたが、サー・ロバートは寒いと不満を言ってまた火を入れさせました。ヘンリーが火をおこしました、 ―― 彼は私の馬手の一人です。今朝、彼はこれを持って私のところに来ました。燃え殻を掻きだしていて見つけたものです。彼はこれを見てぞっとしました」

「確かにそうですね」ホームズが言った。「これをどう思う、ワトソン?」

それは黒い燃え殻になるまで焼け焦げていたが、その解剖学的意義に疑問の余地はありえなかった。

「大腿骨の上髁部だ」私は言った。

「その通り!」ホームズは非常に真剣になっていた。「その馬手はいつ炉の世話をしているんですか?」

「毎晩火をおこし、その後そのままにしておきます」

「では誰でも夜の間にそこに行けるわけですね?」

「そうです」

「家の外から入る事はできますか?」

「外側に一つ扉があります。もう一つ階段を上がって、ビアトリス夫人の部屋があるところにつながる廊下に行く扉があります」

「かなり奥が深いですね、メイソンさん。深く、相当濁っている。サー・ロバートは昨夜家にいなかったとおっしゃいましたね?」

「そうです」

「では、その骨を燃やしたものが誰であろうと、それは彼ではなかったという事ですね」

「その通りです」

「あなたがおっしゃっていた宿の名前はなんでしたか?」

「グリーン・ドラゴンです」

「バークシャーのあの地方にはいい釣り場がありましたね?」嘘のつけない調教師は、ただでさえ悩みの多いところにまた一人おかしな人間が現れたなと、はっきり顔に出した。

「ええ、水車水路にマスがいてホール湖にはカワカマスがいると聞いています」

「それは結構。ワトソンと私は有名な太公望です ―― そうだよな、ワトソン?今後はグリーンドラゴン宛に手紙を出してください。私たちは今夜到着するはずです。言うまでもありませんが、私たちの方からあなたに会いに行くつもりはありません、メイソンさん。しかし手紙は届きますし、私があなたを必要とすれば、いつでも何とかできるでしょう。この件についてある程度捜査が進めば、あなたに調査結果をお知らせします」