コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「水!頼む、水!」彼は叫んだ。

私はサイドテーブルの上の水差しをつかんで、彼を助けるために駆け寄った。同時に、執事と何人かの下僕が玄関ホールから駆け込んできた。私が怪我人の側にひざまずき恐ろしい顔をランプの光の方に向けた時、彼らの一人が気絶した事を覚えている。硫酸が顔全体を腐食させ、耳とあごから滴り落ちていた。片目はすでに白くなりにごっていた。もう片方の目は真っ赤で炎症を起こしていた。私が数分前に賞賛した顔立ちは、いまや美しい絵画の上を作者が濡れた汚いスポンジで擦ったようになっていた。それは、汚れ、変色し、怪物のように恐ろしかった。

私は硫酸の襲撃に関係する範囲内で、何が起きたかを正確に短い言葉で説明した。何人かが窓から出て、他の者は芝生の上を駆け出した。しかし外は暗く雨が降り出していた。叫び声の間に怪我人は復讐者に対して怒りわめき散らしていた。「あのあばずれ、キティ・ウィンター!」彼は叫んだ。「ああ、性悪女!この報いは絶対受けるぞ!報いを受けろ!ああ、なんということだ、痛くて我慢できん!」

私は彼の顔に油を塗り、むき出しの肌に脱脂綿を当て、モルヒネの皮下注射をした。この衝撃の前では、あらゆる疑念が心から消え失せ、彼は私の手にしがみついた。あたかも私が救う力をもっているかのように、良く見えない死んだ魚のような目で私を見上げていた。私は、彼の恥ずべき人生がこの恐ろしい変化の原因だとはっきり聞いていなかったらこの破滅に涙したかもしれなかった。私は、彼が焼け付く手で私に触れているのを感じてぞっとしたので、彼の主治医とそのすぐ後に専門医が来て、私の仕事を引き継いでくれた時はほっとした。警察の捜査官も到着し、私は本当の名刺を手渡した。私はホームズとほぼ同じくらいロンドン警視庁には顔を知られていたので、偽の名詞を渡すのは意味がないばかりではなく愚かなことだっただろう。そして私は暗い恐怖の家を後にした。一時間と経たずに私はベーカー街に戻った。

ホームズは非常に青ざめ、疲労困憊した様子でいつもの椅子に座っていた。自分の傷は別にしても、この夜の出来事はホームズの鉄の神経にさえ衝撃を与えた。そして彼は男爵の変貌に関する私の説明を恐怖の面持ちで聞き入っていた。

「罪の報いだな、ワトソン、・・・・罪の報いだ!」彼は言った。「早かれ遅かれ罪の報いは避けられないのだ。それに見合う罪を犯したかどうかの判定は神のみぞ知るだ」彼は付け加えた。彼は、テーブルから茶色の手帳を取り上げた。「これがあの女が言っていた手帳だ。もしこれで破談にならないなら、何をやっても駄目だろう。だがこれはきっと効く、ワトソン。絶対に効く。自尊心のある女性なら誰でも我慢できるものではない」

「それは彼の愛の日誌か?」

「色欲日記かもしらんな。何と呼んでも構わんが。あの女が話した瞬間、もしそれを入手さえ出来れば、僕はとんでもない武器になることに気づいた。この女性がそれを漏らす危険性があったので、僕はあの時自分の考えを表に出さなかった。しかし僕はずっとその考えを暖めていた。その後、この僕への襲撃で、男爵は僕に対して用心する必要がなくなったと思うことになった。これは完全に好都合だった。もう少し待ちたいところだったが、彼がアメリカに行くというのでやむをえなかった。彼はこんなにも体面を汚す文書を残していくはずがなかった。だから我々はすぐに行動を起こす必要があった。夜の間に押し入る事は不可能だった。彼は用心をしていた。しかしもし確実に彼の注意をそらす事ができるなら、夕方にはチャンスがあった。君と青磁の付け込む隙はそこにあった。しかし僕は手帳の場所をはっきりさせる必要があったし、行動する時間がほんの数分しかないことを知っていた。僕の時間は君の中国陶磁器の知識によって制限されていたからね。だから僕はあの女性を最後の瞬間に招き寄せたのだ。彼女がマントの下であれほど慎重に運んでいた小さな包みが何だったかなど、どうして僕に想像ができただろう。彼女は完全に僕の用件で来たと思っていたが、彼女には何か自分の用があったようだな」

「彼は私が君の使者だと感づいたよ」

「そうなるんじゃないかと思っていた。しかし君はちょうど本を奪える間、彼を引き付けておいた、 ―― 見られずに逃げられるほどの長さではなかったがね。ああ、サー・ジェイムズ、お越しいただけて非常に光栄です!」

前もって呼ばれていたサー・ジェイムズ・ダムリーが現れた。彼は何が起きたかというホームズの説明に、じっと聞き入っていた。

「あなたは驚くべき事をやり遂げましたね、・・・・驚くべき事を!」彼は話を聞き終えて叫んだ。しかし、男爵がワトソン博士のおっしゃるような恐ろしい傷を負ったのなら、その忌まわしい手帳を使わなくても、結婚を阻むという目的は十分達成できるのではないでしょうか」

ホームズは首を振った。

「ド・メルヴィルのような女性はそうはいきません。彼を傷つけられた殉教者とみなして、ますます愛するでしょう。だめです。破滅させなければならないのは彼の肉体ではなく精神です。この手帳で彼女は目が覚めるでしょう・・・・これ以外では不可能だと分かっています。これは彼自身の筆跡で書かれています。無視できるはずがありません」

サー・ジェイムズは手帳と貴重な皿を一緒に持ち帰った。遅くなっていたので、私も彼と一緒に通りにまで下りて行った。四輪馬車が待っていた。彼は飛び乗り、コケードをつけた御者に急いで行くように告げ、素早く走り去った。彼はパネルにあった紋章を隠すためにコートを半分窓の外に垂らしていた。しかしそれでも玄関の明かりで紋章が目に入った。私は驚きに息を飲んだ。それから私は引き返しホームズの部屋まで階段を駆け上がった。

「依頼人が誰か分かったぞ」私は大変な事実を知って、はちきれそうになりながら叫んだ。「なんと、ホームズ、それは・・・」

「それは、忠実な友人であり高潔な紳士」ホームズは私をたしなめるように手を上げて言った。「我々にとって、現在も将来もそういうことにしておこう」

男爵の罪を暴露するあの手帳がどのように使われたか、私は知らされていない。サー・ジェイムズが事を運んだのかもしれない。しかし、これほどまでにデリケートな仕事は若い女性の父親に委ねられた可能性が高いだろう。どちらにしても、その効果は完全に期待通りだった。三日後、モーニングポストに、アデルバート・グラナー男爵とミス・ヴァイオレット・ド・メルヴィルの結婚は、無くなった模様だという記事が載った。同じ新聞に、硫酸を浴びせるという重大な嫌疑で起訴された、ミス・キティ・ウィンターの聴聞に関する記事があった。大きな罪状軽減事由が法廷に提出されたので、判決は、 ―― これは記憶に残るだろうが ―― 、このような犯罪に対して最も軽いものとなった。シャーロックホームズは窃盗で起訴される恐れがあったが、目的が正当で依頼人が十分に高名な*場合、厳格なイギリス検察も思いやりと柔軟性を見せた。わが友人はいまだに被告台には立たされていない。