コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「奇妙な提案でした、ホームズさん。このことを言うために、ブレッシントンという男が私に接触してきたのです。うんざりさせるでしょうから、交渉の詳細については語りません。次のレディ・デー*に私が引越しするという事で話がまとまりました。そして、彼が言っていた通りの形で開業しました。彼自身も入院患者という形で私と同居することになりました。どうやら心臓が弱いらしく、継続的な診療が必要でした。彼は二階の一番いい部屋を自分の居間と寝室に改装しました。彼は奇妙な習慣があり、人と会う機会を避け、外出もほとんどしませんでした。生活は不規則でしたが、一つの事に関しては規則的でした。彼は毎晩同じ時間に診療室にやって来て帳簿を調べ、私の稼ぎから1ギニーあたり5シリング3ペンスを残し、残りを自室に置いている金庫に持って行きました」

「彼はこの投機を決して悔やむことがなかったと、自信をもって言ってもいいでしょう。事業は最初から大成功でした。以前の病院にいる時に、何人かいい患者がついていて評判も上々でしたので、私はたちまち人気の開業医となりました。この数年間で私は彼に多額の収益をもたらしました」

「ホームズさん、私の経歴とブレッシントン氏の関係の話はこれで終わりです。あなたにこれからお話しなければならないのは、私が今夜ここに来ることになった事件です」

「数週間前のことです。ブレッシントン氏は私の部屋に下りて来ました。私には大変興奮した状態のように見えました。彼はウエスト・エンドで強盗が起きたと話しました。そして私の記憶では、どうもそれに対して不必要に興奮してるようで、今日中に窓と扉に今より頑丈な閂を取り付けると宣言しました。それから一週間、彼はずっと奇妙に落ち着きのない様子でした。しょっちゅう窓から外を覗き、いつも行っていた夕食前の短い散歩も止めました。その態度から、彼は何か、あるいは誰かに命の危険を感じているように見えました。しかし私がそのことについて質問すると、彼は非常に攻撃的になるので、この話題を避けなければなりませんでした。時が経つにつれて彼の恐れは徐々に薄らぎ、以前の習慣を再開しました。その時新しい事件が起きて、哀れにも彼は精神錯乱になってしまい、今もその状態が続いています」

「起きた事件というのはこうです。二日前、私はこれから紹介する手紙を受け取りました。住所も日付もありませんでした」

「現在イギリスに滞在中のロシア貴族が、パーシー・トレベリアン博士の専門的助言をいただければありがたいと考えている。彼はここ数年強硬症の発作に見舞われている。よく知られているとおり、この病気はトレベリアン博士が権威者である。もしトレベリアン博士が在宅で、不都合でなければ、明日の夜六時十五分頃に訪問する意向である」

「この手紙には非常に興味がありました。強硬症研究の大きな障害は、この病気の患者が非常に少ないと言う事です。ですから当然、約束の時間にボーイが患者を連れて来た時、私は診察室で待っていました」

「患者は老いて痩せ、ロシア貴族の面影は全く無いむっつりした平民に見えました。私は患者を連れてきた人物の外見の方にもっと驚きました。彼は背が高く、驚くほど男前の青年で、顔は日に焼けて精悍、手足と体は筋骨隆々としています。彼は老人の脇に手を差し伸べて入って来ると、老人を椅子に座らせました。外見からは想像も出来ないような優しさでした」

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「『ご一緒して申し訳ありません、先生』青年は微妙に子音がざらついた英語で言いました。『これは私の父です。父の健康は私にとって非常に大切なのです』」

「私は息子が親を心配する態度に感動しました。『よければ、診察に同席なさいますか?』私は言いました」

「『とんでもない』青年はぞっとしたような身振りで叫びました。『言いようが無いほど辛い事です。父が恐ろしい発作に襲われるところを見れば、とても耐えられないと思います。私はとびきり神経が細い人間です。先生がよろしければ、父を診察している間、待合室にいさせてください』」

「これには、もちろん私も同意し、青年は部屋を出て行きました。患者と私はそれから、すぐに症状を話し合いました。私はそれからすぐに、患者に病状を確認し、詳細なカルテを作成しました。知能には異常がありませんでしたが、返答が曖昧なことがよくありました。それは患者は英語がそれほど達者ではないせいだろうと判断しました。しかし私が座って書き物をしていると、突然患者は私の質問に何の返答もしなくなりました。そして患者の方を振り返ると、彼が完全に無表情のこわばった顔で私を凝視しながら椅子の上で硬直しているのを見て驚きました。患者はまた謎の病気の発作を起こしていたのでした」

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「私が最初に感じたのは、今申し上げた通り、同情と驚きでした。次に感じたのは、患者には申し訳ないのですが、職業的満足に近いものでした。私は患者の脈と体温を記録し、筋肉の硬直度合いを調べ、腱反射を調査しました。これらの状態にはっきりした異常は見られませんでした。これは私の過去の経験と合致します。こういう場合にはアミル亜硝酸塩の吸入で良い結果を得ていました。そして、今回はその利点を試すまたとない機会のように思えました。薬の瓶は階下の実験室にありましたので、患者を椅子に座らせたまま、私は走り降りて取ってきました。見つけるのに少し手間取りました、 ―― まあ五分くらいでしょうか ―― 、その後私は戻りました。患者が消え失せて部屋に誰もいないと分かった時の私の驚きを想像してください」