コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「僕の最初の行動は、ワトソン」彼はフロックコートに大急ぎで袖を通しながら言った。「すでに言ったようにブラックヒース方面でなくてはいかん」

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「どうしてノーウッドでないんだ?」

「それはこの事件では、一つの特異な出来事が別の特異な出来事に接近して起こっているためだ。警察は二番目に注意を集中するという間違いをおかしている。それは二番目の出来事がたまたま実際に犯罪となったためだ。しかし僕には最初の事件を解明しようとすることから始めるのが、この事件に取り組む論理的な方法だというのは明らかだ。それは、あのあまりにも急に作られ、しかも突拍子もない相続人宛てのおかしな遺言だ。これを解明できれば、その後の事件を単純化することが出来るかもしれない。いや、ワトソン、君の助けはいらないと思う。危険なことが起きる見込みはない。そうでなければ君なしで出て行こうとは夢にも思わない。夕方には帰ってこられると思っている。きっと、僕の元に支援を頼みにきたこの不幸な青年の有利になる調査結果を報告できると思う」

ホームズが帰ってきたのは遅い時刻だった。そして私は彼の憔悴して不安な顔を一目見ただけで、調査に着手した時に抱いていた大きな望みがかなえられなかったと分かった。一時間、彼は乱れた心を鎮めようとしてバイオリンを物憂げに弾いた。最後に彼は楽器を投げ捨て、上手くいかなかった捜査の詳細を一気に話し始めた。

「全部失敗だった、ワトソン、 ―― 全部だ、これ以上無いほどの失敗だった。レストレードの前では自信たっぷりだったが、これは参った。初めて僕はあいつが正しくて、僕たちが間違っているように思うよ。僕の直感は一つの方向を向いている。なのにすべての事実が反対を指す。そして僕は、イギリスの陪審員がまだレストレードの事実を差し置いて、僕の理論を優先する程の知性を獲得していないと思う」

「ブラックヒースに行ったのだろう?」

「そうだ、ワトソン、僕はブラックヒースに行った。そしてすぐに故オルデイカーはとんでもない悪党だったと分かった。父親は息子を探しに出ていた。母親は家にいた。背の低い巻き毛で青い目の女性だったが、恐れと憤慨で震えていた。もちろん、彼女は息子が犯人だという事は可能性すら認めようとしなかった。しかし彼女はオルデイカーの死に対して驚きも哀悼の意も示そうとしなかった。それどころか、彼のことを実に憎憎しげに語った。それは無意識のうちに警察の言い分を非常に強化したように思う。もちろん、こういう風にあの男のことを話すのを息子が聞いていたとすれば、憎悪を抱いて暴力を振いやすくなったかもしれない。『彼は人間というよりも悪質でずる賢い猿です』彼女は言った。『いつもそうでした、若いときからずっと』」

「『以前から彼をご存知なのですか?』僕は言った」

「『はい、よく知っていました。実は、私は彼に求婚されました。私が彼に背を向け、貧乏であっても、もっと良い男性と結婚する良識を持っていたことを神に感謝します。私は彼と結婚の約束をしていました、ホームズさん。婚約中、私は彼が鳥小屋に猫を放したという衝撃的な話を聞いたのです。私は彼の獣のような残忍さに恐れおののき、それ以後はもう彼とは一切関係を断ちました』彼女は化粧タンスをかき回して、まもなく恥ずかしく傷つけられナイフで切り刻まれた女性の写真を取り出した。『これは私の写真です』彼女は言った。『彼はそれを私の結婚式の朝、呪いの言葉と共に送ってきました』」

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「『まあ』僕は言った。『少なくとも彼の方はあなたを許していたようですね。あなたの息子に全財産を遺したのですから』」

「『息子も私も、オルデイカーからは何も欲しくありません。生きていようが死んでいようが』彼女は敢然と言い放った。『神様は天におられます、ホームズさん。そしてあの悪人を罰した同じ神が、良き時に息子の手があの男の血で汚れていないとお示しになるでしょう』」

「他にも一つ二つ、質問してみたが、僕の仮説の裏付けになりそうなものは得られなかった。それどころか、不利になりそうな点まであった。結局あきらめて、ノーウッドに向かった」

「ディープ・ディーン・ハウスは、けばけばしいレンガの大きな近代的郊外住宅だ。敷地の奥に建ち、前は月桂樹の茂みのある芝生になっている。道からいくらか入った右手に、火災現場の材木場があった。ここにノートの切れ端に書いたおおまかな配置図がある。左手の窓は、オルデイカーの部屋に通じている。道からその窓を見通すことができると分かるだろう。今日の調査結果で、わずかな慰めを見出すとすれば、まずこれだけだ。レストレードはそこにいなかったが、巡査長が仕切っていた。警察はちょうど宝の山を見つけたところだった。彼らは午前中かけて、燃えた材木の灰の中をくまなく探し、動物の炭化した残骸に加えて、変色した金属の円盤を何枚か入手した。僕はそれを注意深く調べた。それらは間違いなくズボンのボタンだった。僕はボタンの一つに『ハイマス』の名前が刻まれているのを見極めることさえできた。それはオルデイカーの仕立屋だった。僕はその後痕跡や手がかりを求めて非常に注意深く芝生を調べた。しかしこの日照りですべては鉄のように堅くなっていた。ただ、低いイボタの生垣を通って、材木場までまっすぐに何か死体か荷物が引きずられた跡があっただけだ。もちろん、これはすべて警察の見解に符合する。僕は、8月の太陽を背に受けて芝生を這いずり回った。しかし、一時間たって僕は何一つ得られず起き上がった」

「この大失敗のあと僕は寝室に行き、そこも調べてみた。血痕は非常に薄く、ただの汚れと変色にすぎないが間違いなく新しいものだ。杖は別の場所にあったが、この痕跡も薄かった。この杖が我々の依頼人のものであることは間違いない。本人がそれを認めている。絨毯の上に二人の足跡を見分けることができた。しかし三人目の足跡は無かった。これもまた相手側の得点だ。相手は着々と得点を積み重ね、こっちは袋小路だ」

「たった一つ、小さな希望があった、・・・・もちろんまだ得点にはならないのだがね。金庫の中身を調べると、ほとんどは取り出されて、テーブルの上に並べられていた。書類は封筒に収められていたが、警察が開いていたものも一、二点あった。その書類は、僕が判断できる範囲ではそれほど値打ちがなく、預金通帳を見る限りでは、オルデイカー氏はあまり裕福な財政状況ではなかった。だが僕にはどうやらすべての書類がそろってはいないように思えた。なんらかの証書 ―― もしかするともっと価値があるものだ ―― 、の存在を示唆するものがあった。だが、それはまだ見つかっていない。もちろん、もしその存在を確実に証明できれば、レストレードの理屈で彼自身に仕返しができる。すぐにそれを相続することになると知っていて、誰がそれを盗むというのだ?」

「すべてを調査して、何も手がかりが得られなかったので、最後に家政婦に自分の運をかけてみた。レキシントン婦人という名前だったが、背の低い、暗い、口数の少ない人物で、疑り深い切れ長の目をしていた。彼女は何か知っている、 ―― これは間違いない。しかし、のらりくらりとはぐらかした。はい。私が9時半ごろマクファーレンさんを招き入れました。そうする前にこの手がしおれていたらよかったのに。10時半に床につきました。私の部屋は部屋の反対の端にあるので何が起きても全然聞こえません。マクファーレンさんは帽子を置き忘れ、私の知る限りでは杖を玄関に忘れていきました。私は火事の警報で目が覚めました。かわいそうな親愛なる主人は間違いなく殺されたのです。敵がいたかですか?ええ、だれでも敵はいます。しかしオルデイカーさんはずっと内向的で、仕事上で付き合いのある人以外には会いませんでした。このボタンは見たことがあります。間違いなく昨夜着ていた服についていたものです。材木の山は一ヶ月も雨が降っていなかったので非常に乾いていました。現場に私がついた時には、焚き付けのように燃えていました。炎しか見えませんでした。私と消防士は中で肉が焦げる臭いをかぎました。私は書類のこともオルデイカーさんの個人的事情も知りません」

「親愛なるワトソン、これが失敗の報告だ。しかし、しかし」彼は確信の発作に、痩せた手を握り締めた。「みんな違うと分かっているのだ。骨の髄までそう思う。何かまだ表に出ていないものがある、そしてあの家政婦はそれを知っている。彼女の目にはうしろめたいことを知っている場合にしか見られない不機嫌な反抗のようなものがある。しかし、これ以上このことを話しても何にもならないな、ワトソン。だがこっち側に何かの幸運がやってこない限り、『ノーウッド行方不明事件』は、我々の成功の記録には入らない恐れがあるな。僕の見込みでは、忍耐強い読者がいずれ我慢を強いられる事になるだろうな」

「きっと」私は言った。「あの青年の風貌が陪審員の印象を良くするんじゃないだろうか?」

「それは危険な考えだな、ワトソン。君は1887年に我々に手助けを求めてきた、あの恐ろしい殺人犯、ベール・スティーブンズを覚えているだろう。彼以上に物腰の柔らかい、日曜学校にでもいそうな青年を見たことがあったか?」

「確かにそうだ」

「我々が別の理論を確立することに成功しないかぎり、この男は裁判に負ける。彼が今直面している告訴要件にはほとんど難点がない。そしてその後の捜査によって、さらにそれが強化されている。ところで、あの書類に関して一つ、小さいが奇妙な点がある、ここから捜査の突破口が開けるかもしれない。僕は預金通帳を調べて、残高が少ないのは、主に昨年コーネリアス氏に振り出された大きな額の小切手が原因だという事を発見した。僕は引退した建築業者がこんなにも多額の取引を行ってきたコーネリアス氏の正体を突き止めることに関心を持つべきだと思う。彼が今回の事件に関わっている可能性はあるのか?コーネリアスは仲介業者かもしれないが、これらの巨額の支払いに見合う証書が見つかっていない。他のすべての手がかりが失敗に終わったので、僕は銀行関係とこの小切手を現金化する男の方を調査しなければならない。しかし、ワトソン、この事件はレストレードが我々の依頼人を絞首刑にして不名誉な結果に終わるのではないかと心配だ。そうなれば、間違いなくロンドン警視庁の大勝利となるだろうが」