コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「ホームズさん、それは訊かないでくださいと申し上げるほかありません。その名誉ある名がこの事件に一切関与しないことが重要なのです。依頼人の動機は、心底高貴で慈悲深いものです。しかしその方は匿名を望んでいます。申し上げるまでもありませんが、依頼費用については心配ありませんし、捜査方法に一切口出しはしません。誰が依頼人でも、それはささいな問題のはずですが?」

「申し訳ありません」ホームズは言った。「私は事件の片方に謎があるのは慣れていますが、両端にあるのは面倒すぎます。残念ですが、サー・ジェイムズ、捜査をお断りするしかありません」

訪問者は激しく動揺した。彼の大きな感受性豊かな顔が興奮と失望に陰った。

「ホームズさんは、ご自分がなさっている事の意味をよく分かっていません」彼は言った。「ホームズさんは私を非常に深刻なジレンマに追いやっています。もし事実を話せば、私はホームズさんが誇りをもってこの事件を引き受けるだろうと確信を持っています。それなのに全てを明かせば約束を破ることになる。せめて、話だけでも聞いていただけませんか?」

「もちろん結構です。私が仕事を引き受けるとは一言も言っていない事を承知していただけるなら」

「それは承知の上です。まず最初に、ド・メルヴィル将軍のことは、もちろんご存知と思いますが?」

「ハイバルで名声を上げたド・メルヴィルですか?ええ、その名前は伺っています」

「彼には、ヴァイオレット・ド・メルヴィルという娘がいます。若く、あでやかで、美しく、教養があり、どこから見ても素晴らしい女性です。この娘なのです。この愛らしく、うぶな女性なのです。私たちが悪魔の爪から救おうと奮闘しているのは」

「では、グラナー男爵が彼女の心をつかんだのですか?」

「女性の心を最も強力につかむものです、 ―― 愛の力です。噂はご存知でしょうが、この男はとびきりの美男子で、最高に洗練されたマナーを持ち、優しい声、そしてロマンスと神秘の雰囲気は、女性にとってはたまらない魅力なのです。彼は女性なら誰でも自由に操れる能力があり、それを最大限活用していると言われています」

「しかしどうやってそんな男がミス・ヴァイオレット・ド・メルヴィルのような身分の女性と出会ったのですか?」

「地中海のヨット航海でのことでした。参加者は厳選されていましたが、基本的に自費でした。主催者は間違いなく、男爵の裏の顔をほとんど知らず、気づいた時には手遅れでした。あの悪党は彼女に取り入りました。そして見事な手腕で彼女の心を完全に射止めました。というよりも、彼女は心底愛するようになりました。彼女は彼にぞっこんで、完全に心を奪われています。彼のほかには何もありません。彼の悪口は一言も聞こうとしません。彼女の熱を冷まそうとあらゆる事をしましたが、無駄でした。結局、彼女は来月結婚するつもりでいます。彼女は成人していますし、鉄のように意志が固いので、結婚を阻止する手段がなかなか見つからないのです」

「オーストリアでの出来事を彼女は知っているのですか?」

「あのずる賢い悪魔は過去のいかがわしいスキャンダルを全て彼女に打ち明けています。しかし常に自分は濡れ衣を着せられた犠牲者となるような言い方をしているのです。彼女は完全にその説明を真に受け、他の人間の言うことには耳を貸しません」

「それは大変だ!しかし、ここまで言えばもう依頼人の名前が出てしまったのではないですか?依頼人は当然、ド・メルヴィル将軍でしょう」

訪問者は椅子の上で身じろぎした。

「そうだと言ってホームズさんを騙すことも出来るかもしれませんが、実は違います。ド・メルヴィルは完全に打ちのめされました。頑強な戦士はこの事件によって完全にくじけてしまいました。戦場では決して失わなかった勇気を失い、弱って、手足のおぼつかない老人になってしまいました。このオーストリア人のように輝かしく力強い悪党と対決するには完全に無力です。しかし、私の依頼人は昔からの友人で、長い間将軍とは親密な付き合いをしてきており、この女性が短いワンピースを着ている頃から父親としての情をかけてきました。依頼人はこの悲劇の完遂を、手をこまねいて見ていられません。ロンドン警視庁が出来ることは何もありません。あなたに依頼を持ちこむというのは依頼人の提案です。しかし、すでに申し上げたように、その際依頼人が事件に個人的に関係を持たないようにするという条件を明示されました。もちろんホームズさん、あなたの偉大な能力を使えば、簡単に私の後ろにいる依頼人を突き止めることが出来るでしょう。しかし彼の名誉がかかっていますので、それはやめて、正体を突き止めないようにお願いしなければなりません」

ホームズはいたずらっぽく微笑んだ。

「それはもちろんお約束してもいいでしょう」彼は言った。「あなたの事件に興味がわき、それに着手する気になったと付け加えてもいいでしょう。どのようにあなたと連絡をとればいいですか?」

「チャールトン・クラブで連絡がつきます。しかし緊急の事態に備えて、私の電話番号をお教えします。『XX.31』 です」

ホームズはそれをメモすると、笑顔を崩さずに開いた手帳をひざに置いて座っていた。

「男爵の現住所はどこですか?」

「ケンジントン近くのヴァーノン・ロッジです。大きな家です。ちょっときな臭い投機を当てて懐が豊かになっています。当然、彼はいっそう危険な敵となっているわけです」

「今その家に住んでいるんですか?」

「ええ」

「すでにお話いただいたこと以外に、この男についてもっと情報はありませんか?」

「彼は金のかかることが好きです。馬の愛好家で、短期間ですが、ウルリンガンでポロをしていました。しかしその時あのプラハの事件が噂になり、出て行かざるをえませんでした。彼は本と絵画の収集家です。かなり貴族的な性格を持った男です。私の知る限り、中国磁器については一目置かれた権威者で、その主題の著書が一冊あります」

「多層人格か」ホームズは言った。「高度な犯罪者は皆そうだ。チャーリー・ピースはバイオリンの名手だった。ウェインライトは大した芸術家だった。ほかにも数多く挙げられる。ところで、サー・ジェイムズ、依頼人に私がグラナー男爵に興味を持ったと伝えてください。それ以上は言えません。私は自分の情報源を持っていますので、恐らく何らかの突破口を見つけられると思います」

訪問者が去った後、ホームズはまるで私の存在を忘れたかのように非常に長い間考え込んで座っていた。しかしとうとう、突然我に返った。

「さて、ワトソン、どうしたものかな?」彼は尋ねた。

「その若い女性に会うべきだと思う」

「やれやれワトソン、哀れに打ちのめされた老父でも心を動かせないのに、どうして一面識もない僕が説得できる?とはいえ、最後の手段としては、やってみてもいいかもしれんな。しかし、まずは違う方向から着手すべきだと思う。シンウェル・ジョンソンが助けになるような気がする」