バスカヴィル家の呪い 4 | バスカヴィル家の呪い 5 | 問題 1 |
「それでは」モーティマー医師は言った。彼は激しく動揺しはじめたように見えた。「誰にも言わなかった事をお話しましょう。検死官の尋問でこれを言わなかったのは、科学を信奉する人間として、公的な場で下らない迷信を支持するような立場を取りたくなかったからです。別の動機もありました。新聞に書いてあったように、既に広まっている不気味な噂に輪をかけるようなことをすれば、バスカヴィル館には本当に誰も住まなくなりかねなかったのです。この二つの理由で、実務的に必要でない限りは、知っていることを洗いざらい話さなくても許されると考えました。しかしホームズさんには何も隠し立てするべきではありません」
「荒野は非常に過疎の地域ですので、近くの住民同士は、すぐ交流するようになります。こうした理由で、私はサー・チャールズ・バスカヴィルとよく会う事になりました。ラフター・ホールのフランクランド氏と博物学者のステイプルトン氏の二人を除けば、この地方には教育を受けた者がおりません。サー・チャールズは内気な人でしたが、病気がきっかけで友人になりました。そして二人とも科学好きという共通性があったので、それからずっと親しくしてきました。サー・チャールズは南アフリカで知った科学的情報を色々と話しましたので、ブッシュマンとホッテントットの比較解剖学を議論しながら、何度となく、素晴らしい夕べを一緒に過ごしたものです」
「最後の数ヶ月、私は少しずつサー・チャールズの神経が極限まで張り詰めている事が分かってきました。彼は私がさきほどお話した伝説を非常に真剣にとらえていましたので、敷地内は散歩しても、決して日が暮れてから荒野に出かけようとはしませんでした。あなたにとっては信じられない事かもしれませんが、ホームズさん、彼は本当に恐ろしい運命が自分の家系を覆っていると信じていました。何代もの祖先の犠牲で呪いがとけたと安心することもできないようでした。彼は何か恐ろしいものが出現するのではないかという強迫観念にとりつかれていました。彼は何度も私にこう尋ねました。夜の往診をした際、何か奇妙な生き物を見たり、犬が吠えるのを聞かなかったかと。彼がこの質問をするときは、いつもおびえて声が震えていました」
「忘れられない出来事があったのは、亡くなる約三週間前の夕方です。サー・チャールズの館まで馬車で行くと、彼はたまたま玄関先にいました。馬車を降りて近くに行ったとき、サー・チャールズが恐ろしい形相で私の肩越しに後ろを見つめているのに気づきました。私はさっと振り返りましたが、その瞬間、何かがちらりと目に映りました。それは黒い大きな子牛が馬車道の入り口あたりを横切ったように見えました。彼は完全におびえきって興奮しており、それをなだめるには、その動物が見えたところまで行って、あたりを調べてみるしかありませんでした。しかし、ちらりと見えたものは影も形もなかったのです。それなのに、この出来事で彼は完全に震え上がっているようでした。その夜遅くまで私は彼に付き添いました。そしてこのとき、彼は自分がなぜあれほど動揺したかを説明するために、最初に私が読み上げた伝説の古文書を手渡したのです。こんな小さな出来事までわざわざお話しするのは、その後の惨劇と照らし合わせると、重要だった気がするからです。しかし当時は、これは本当にささいな事件で、サー・チャールズのおびえには何の根拠もないと確信していました」
「サー・チャールズがロンドンに行く予定になっていたのは、私の助言からです。サー・チャールズの心臓が弱っていることは、知っていましたし、ずっとびくびくしながら生活していました。恐れる理由がどれほど非現実的であるにせよ、明らかに彼の健康には深刻な影響がありました。私は、ロンドンで数ヶ月ほど気分転換すれば、元気を取り戻すだろうと考えたのです。共通の友人のステイプルトン氏もサー・チャールズの健康状態を非常に気にかけていて、私の意見に賛成でした。サー・チャールズがロンドンに行こうとする、まさにそのとき、この惨事が起きたのです」
「サー・チャールズが死んだ夜、執事のバリモアは、 ―― 彼が第一発見者です ―― 、御者のパーキンスを馬で私の家まで来させました。そのとき、まだ起きていたおかげで、事件から一時間とたたずにバスカヴィル館に着くことができたのです。現場を調査して、検死陪審で供述したような事実を確認しました。彼の足跡をイチイの小道までたどり、荒野に出る門を調べると、そこで誰かを待っていたような跡がありました。その地点から先は、足跡が変化しているのに気づきました。柔らかい砂利道には、バリモア以外の足跡はなかったことは注意して確認したので間違いありません。最後にサー・チャールズの体を調べました。私が来るまで誰も手を触れていません。サー・チャールズは手を広げ、指で地面をつかむようにして、うつ伏せに倒れていました。表情は激しい動揺にゆがみ、私がほとんどサー・チャールズだと見分けられないほどでした。体に傷はありませんでしたが、審問の際、バリモアは一点だけ間違った陳述をしています。彼は死体の回りには、何の痕跡もなかったと証言しましたが、それはただ、彼が何も見なかったというだけです。しかし私は見ました、 ―― ちょっと離れていましたが、新しくはっきりとしたものでした」
「足跡ですか?」
「足跡です」
「男性の足跡ですか、それとも女性の?」
モーティマー医師は私たちを一瞬奇妙な目で見た。そして、こう答える時、彼はささやくように声をひそめた。
「ホームズさん、それは、化け物のように大きな犬の足跡だったのです!」
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