バスカヴィル家の呪い 3 | バスカヴィル家の呪い 4 | バスカヴィル家の呪い 5 |
「サー・チャールズ・バスカヴィルが最近亡くなった事は、この地方に暗い影を落としている。彼は次の選挙で、デボン中央区から自由党候補で出馬する予定だと取りざたされていた。サー・チャールズはバスカヴィル館には、比較的短い期間しか住んでいなかったが、親しみやすい性格と、まったく物惜しみをしない態度によって、彼と接する機会を持った人間全員から、愛情と尊敬を勝ち取っていた。新興富裕層が幅を利かす今日、不運な立場に立たされていたこの地方の旧家出身の人間が、自分の力で財産を築き上げて凱旋し、没落した偉大な家系を再興したという事例を目の当たりにするのは実に爽快である。よく知られているように、サー・チャールズは南アフリカの投機で巨万の富を得た。相場が逆転するまで投機を続けた人間を尻目に、見る目があった彼は、利益を現金化すると、それを手にイギリスに戻ってきた。彼がバスカヴィル館に居を構えてから、まだ二年に過ぎない。そして、彼の死によって中断されることになった館の再建計画がどれほど壮大なものであったかは、もっぱらの噂である。彼には子供がなく、生きている間に、この地方全体を豊富な資金で潤わせるという念願を持っていると公言していた。そしてこの突然の死を個人的な理由で嘆き悲しむ人が大勢いるであろう。彼が地元や地方の慈善事業に多額の寄付をしていた事は、このコラムで何度も取り上げられている」
「サー・チャールズの死に関わる状況は、検死陪審によっても完全に明白になったとは言えない。しかし少なくともこの陪審によって、地元の迷信を掻き立てる噂を解消させることはできた。犯罪を疑わせたり、自然死以外の死因を想像させるような証拠は全くない。サー・チャールズは妻に先立たれており、幾らか風変わりな性格だったと言われていた。莫大な富にも関らず、彼は簡素な生活を好み、バスカヴィル館の室内使用人はバリモアと言う名前の夫婦だけだった。夫は執事として働き、妻は家政婦として働いていた。複数の友人によって裏付けられた夫婦の証言によると、サー・チャールズの健康はどちらかと言えば、最近思わしくなく、特に心臓に何かの問題があった模様である。それは顔色の変化、息切れ、神経衰弱の発作として表れていた。故人の友人であり主治医のジェームズ・モーティマー医師も、同様の証言をしている」
「この事件の事実関係に込み入った点はない。バリモアの証言によると、サー・チャールズ・バスカヴィルは毎晩寝室に行く前に、バスカヴィル館の有名なイチイ並木を散歩する習慣になっていた。五月四日、サー・チャールズは次の日、ロンドンに出発するという意向を伝え、バリモアに荷物を用意するように指示していた。その夜、彼はいつものように夜の散歩に出かけた。散歩の途中で葉巻を吸う習慣になっていた。彼は戻らなかった。十二時になって、まだ玄関の扉が開いているのに気づいたバリモアは心配になり、ランタンに灯を入れて主人を探しに出かけた。この日は雨あがりで、サー・チャールズの足跡はイチイの小道までくっきりと残っていた。この小道を半分ほど歩くと、荒野へ出て行く門があった。サー・チャールズは少しの間ここに立っていた痕跡があった。サー・チャールズはその後、小道を進み、死体が発見されたのは、道の突き当りだった。バリモアの供述の中で説明がつかない点の一つは、荒野に続く門を過ぎた時から、主人の足跡が爪先立って歩いたように変っていた点だ。マーフィーというジプシーの馬商人が、その時荒野の非常に離れた場所にいた。しかしこの男は、自分でも認めているように、ひどく酔っ払っていた。マーフィーは叫び声を聞いたと供述したが、どの方向から聞こえてきたかは、はっきり証言できなかった。サー・チャールズの体に、暴行を受けた痕跡は発見されなかった。しかし医者の証言によると、信じられないほど顔がゆがんでいたということである。そのゆがみがあまりにもすさまじかったため、モーティマー医師は目の前に横たわっているのが、本当に彼が親しくしている患者とは信じられなかったと供述している。この表情の変化は、呼吸困難や心臓疾患の場合にはよくある事例だと説明されている。検死の結果、この説明を裏付ける慢性の器質性疾患が認められた。そして検死陪審員はこの医学的証拠に従った評決を下した。自然死が確定したのは好ましい事態である。なぜなら、サー・チャールズの後継者が館に居住し、こんなにも悲しく中断された慈善行為を継続していくことが、当面の最重要課題だからである。検視官がごく普通の死因を認定することによって、もしこの事件に関係して流布していた空想的な話が葬り去られていなければ、バスカヴィル館には人が寄り付かない可能性があった。最近親者は、存命であれば、サー・チャールズ・バスカヴィルの甥にあたるヘンリー・バスカヴィル氏と判明している。この青年の消息が最後に聞かれたのはアメリカで、巨額の遺産相続を知らせるため、現在捜索中である」
モーティマー医師はもう一度新聞をたたみポケットに戻した。
「これがサー・チャールズ・バスカヴィルの死に関して公表されている事実です、ホームズさん」
「この事件を思い出せていただいた事を、あなたに感謝しなければなりませんね」シャーロックホームズは言った。「この事件には、間違いなく興味深い特徴があります。僕も事件発生当時、何紙かの新聞記事を読みました。しかし僕は、ローマ法王の願いを何としてもかなえようと、バチカンのカメオに関するちょっとした事件に没頭していましたので、面白いイギリスの事件を幾つか見逃してしまいました。この記事には、公表された事実がすべて載っているとおっしゃいましたね?」
「その通りです」
「それでは公表されていない事実を教えてください」彼は指先を合わせ、裁定を下すかのような超然とした表情で椅子にもたれかかった。
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