「何か危険を感じているのか?」私は尋ねた。
「その通りだ」
「何に?」
「空気銃だ」
「ホームズ、どういう意味だ?」
「君は僕が決して神経質な人間ではないという事は良く知っていると思う、ワトソン。しかし同時に、危険が迫っているのにそれを認識しようとしないのは勇気があるというより愚かな行為だ。マッチをくれないか?」彼は紙巻煙草の煙を吸い込んだ。まるで、心を落ち着ける効果に感謝しているようだった。
「こんな遅くに来てすまない」彼は言った。「その上非常識にも、裏の庭の塀を乗り越えるという方法で、すぐにこの家から出て行く事を改めて謝罪しなければならないのだ」
「一体全体どうしたんだ?」私は尋ねた。
彼は手を差し出した。二箇所すりむけ、出血している拳が、ランプの光に照らされていた。
「見てのとおり、これは空想の産物ではない」彼は笑いながら言った。「それどころか、拳を痛めるほど堅い現実だ。奥さんはご在宅かな?」
「妻は出かけて留守だが」
「そうか!君は一人か?」
「全くそのとおり」
「それなら、誘いやすくなったな。一緒に一週間ほどヨーロッパ旅行に行かないか」
「どこへ?」
「ああ、どこでもいい。僕にはどこでも同じだ」
これは完全に何かがおかしかった。ホームズの性格では、目的もなく休みを取ることなどありえなかった。そして青白い疲れた表情を見れば、彼の神経が最高に張り詰めていることは、はっきりしていた。私の目からこの疑問を読み取ると、彼は指先を合わせて膝の上に肘を置き、状況を説明しだした。
「モリアーティ教授のことは多分聞いたことがないだろうね?」彼は言った。
「全くない」
「それが天才的で驚くべきことなんだ!」彼は言った。「ロンドン中でこの男の息のかかっていない場所はどこにもないというのに、誰も彼の名を聞いたことがない。彼が犯罪歴史の頂点に立っているのは、このおかげだ。ワトソン、本当に真剣だが、もしこの男を始末して、彼から社会を解放する事ができたら、僕の経歴は頂点に達したと感じるだろう。そしてもっと穏やかな人生を送る準備をするだろう。ここだけの話だが、スカンジナビア王家と、フランス政府を手助けした最近の事件で、僕には静かに暮らして行けるだけのものが残った。のんびりとした生活をして、科学実験に精力を傾けるのは僕の性に一番あっている。しかし僕は休めん、ワトソン。あのモリアーティ教授のような男が、ロンドンの通りを大手を振って歩いていると思うと、僕は静かに椅子を暖めてなどいられない」
「その男はいったい何をしたんだ?」
「彼の経歴は驚くべきものだ。いい家の生まれで素晴らしい教育を受け、並外れた数学的才能に恵まれている。二十一歳の時、彼は二項定理に関する論文を書いてヨーロッパ中で大評判となった。それが認められて大学の数学部長の座を手に入れ、誰の目にも非常に輝かしい未来が待っていた。しかし、この男は極端に悪魔的な精神に向かう遺伝的傾向を持っていた。彼の血管には犯罪の資質が流れていて、並外れた知力によってそれが矯正されるどころか、逆に増強され途方もなく危険な形に変質していた。大学のある町で、彼に黒い噂が付きまとった。そして最終的に彼は教授職を辞めさせられ、ロンドンにやって来て、軍人相手の教師として開業した。ここまでは一般に知られている事実だ。しかしこれから話すのは、僕が自分で調べ上げた事だ」
「ワトソン、君も知ってのとおり、僕ほどロンドンの犯罪界に精通している人間は他にはいない。何年間も、僕はずっと犯罪の後ろに何かの力があることに気付いていた。何か闇の組織が警察を妨害し、悪人を保護している。非常に多種多様の事件 ―― 偽造、強盗、殺人 ―― 、で、僕は何度となく、この力の存在を感じていた。そして僕が個人的に関っていない沢山の未解決事件でも、その力が働いていると想定した。何年間も、僕はその正体を暴こうと努力してきた。そして遂に糸口をつかみ、それをたどるチャンスがやって来た。その糸を追っていくと、無数の巧妙な紆余曲折の果てに、数学界の著名人、モリアーティ元教授へとたどり着いた」
「彼は犯罪界のナポレオンだ、ワトソン。この大都市で起こった悪事の半分、そして警察が気づいていない事件はほとんどすべて、彼が黒幕だ。彼は天才で、哲学者で、抽象思考家だ。彼は第一級の頭脳を持っている。彼は巣の中心の蜘蛛のようにじっと座っている。しかしその巣は無数の放射状の糸があり、一本一本の振動をすべて把握している。彼は自分ではほとんど手を下さない。計画を練るだけだ。しかし代理人は無数にいて素晴らしく組織化されている。やるべき犯罪があるか盗むべき書類があるとする。例えば、略奪するべき家、取り除くべき男、こういう話が教授の元に届くと、それは組織的に実行に移される。代理人は捕まるかもしれない。そういう場合には保釈か弁護の金が出てくる。しかしこれらの代理人を使う中央の権力は決して捕まらない、 ―― 疑いすらもかけられない。これが僕が推理した組織だ、ワトソン。そして僕はそれを暴き解体しようと全力を捧げている」
「しかし教授は非常に巧妙に作られた防衛網に囲まれていた。どんな方法をとろうとも、法の裁きで有罪にしうる証拠をつかむのは不可能に思えた。君は僕の能力を知っているだろう、ワトソン、しかし三ヶ月の後、僕は遂に知的能力で対等な敵に出会ったことを認めざるをえなかった。彼の犯罪に対する嫌悪感は、その技量への称賛で消えて行った。しかし遂に彼は過失を犯した、 ―― 本当に小さな、小さな過失だが ―― 、僕がここまで彼に迫っている時には、犯しうる範囲を越えていた。僕はチャンスをつかんだ。そしてこの点から始めて、僕は彼の周りに網を張り巡らせ、そして今やそれを引き締めるばかりとなった。三日で、 ―― これはつまり、次の月曜日だ ―― 、事態は完遂される。教授は、彼の悪党の主要メンバーと共に警察の手に落ちるだろう。そして今世紀最大の犯罪法廷が開かれ、四十以上の迷宮事件が解決し、全員が絞首台送りになる。しかしもし事を急げば、彼らはたとえ土壇場になっても我々の手から逃れるかもしれない」