コンプリート・シャーロック・ホームズ
ホーム長編緋色の研究四つの署名バスカヴィル家の犬恐怖の谷短編シャーロック・ホームズの冒険シャーロック・ホームズの回想シャーロック・ホームズの帰還最後の挨拶 シャーロック・ホームズの事件簿

私はボロボロの帽子を手にとり、やれやれという気持ちでひっくり返した。本当にどこにでもありそうな普通の丸形の黒い帽子で、堅いが非常に擦り切れていた。裏地は赤い絹で出来ていたが、かなり変色していた。メーカーの名前は無かったが、ホームズが言ったようにH.Bのイニシャルが横側に走り書きされていた。縁には帽子押さえが縫い付けてあったが、ゴムは無くなっていた。それ以外は、ひび割れてホコリまみれで、あちこちにシミがあったが、それでも褪色した部分にインクを塗って隠そうとしたようだ。

「何も見当たらないな」私はホームズにその帽子を手渡しながら言った。

「その反対だよ、ワトソン。君は何もかも見ている。しかし、そこから推理しない。もっと思い切って推論してみるべきだ」

「そう言うなら、君がその帽子から何を推論したか言ってみてくれるか?」

ホームズは帽子を持ち上げりると、特有の奇妙で内相的な雰囲気でじっと眺めた。「もしかすると、本来ならもう少しいい手掛かりが残っていたかもしれない」ホームズは言った。「しかしそれでも、何点か非常にはっきり推理できることがあるし、他にも何点か、少なくとも非常に可能性が高いことがある。この男が高い知性を持っているということは、もちろん一見して明らかだ。そして今は不遇の日々を送っているけれども、過去三年間は実に裕福だった。かつては洞察力を持っていたが、今は以前ほどではない。これは生活が荒れだしたことを示している。こうなったのは彼の金回りが悪くなった時期だが、どうやら何か悪い影響を受けたことを示している。人が変わった理由は、おそらく酒だ。それから、これもほとんど明らかな事実と言ってよいだろう・・・・彼はもう妻に愛されていない」

「ホームズ、その辺でいいだろう!」

「しかし、いくらかの自尊心は残っている」ホームズは私の抗議を無視して続けた。「腰が重く、ほとんど外出しない。中年で、完全に運動不足だ。白髪交じりで数日以内に散髪した。髪にライムクリームを塗っている。他にもこの帽子から明らかに推察できる事実はある。さらに、別件になるが、家にガス灯が引かれている可能性はまずないだろう」

「君はきっとからかっているんだな、ホームズ」

「とんでもない。僕がこうして推理の結果を披露したのに、それでもどうやってそれが導き出されたか、理解できないなんてありえるのか?」

「きっと非常に頭が鈍いんだろうとは思うが、正直に言うとまったく理解できない。例えば、どのようにしてこの男の知性が高いと推理したのだ?」

その答えにホームズは帽子を頭にポンと乗せた。帽子は額を完全に覆い、鼻筋にまで達した。「これは、容積の問題だ」ホームズは言った。「これほど大きな頭脳なら、何か入っているさ」

「それでは、資産が減ったということに関しては?」

「この帽子を買ったのは三年前だ。こんな風にツバが真っ直ぐで端が丸まっている帽子が流行っていたのは、その頃だ。この帽子は最高級品だ。畝織の絹のベルトと高級な裏地を見てみろ。もし持ち主が三年前には、こんなに高い帽子を買う余裕があったのに、その後買い換えていないとすれば、間違いなく金回りが悪くなったということだ」

「なるほど、確かによく分かるな。しかし洞察力と品行の堕落は?」

シャーロックホームズは笑った。「洞察力はここにある」彼は帽子押さえの糸の輪と小さな円盤を指で押さえながら言った。「これは最初から帽子について売られていたものではない。この男が注文してつけたとすれば、わざわざ風で飛ばされない用心をしたわけだから、ある程度洞察力があったはずだ。しかしゴムが外れたのに、新しくつけようとしなかったのだから、洞察力がそれ以前より衰えた事は明白だ。それは気力の衰えをはっきりと物語っている。ところが、フェルトの染みにインクを塗って隠そうと努力している。これは自尊心が完全に無くなったわけではない証拠だ」

「確かに説得力のある推理だな」

「それ以外の点、彼が中年で、白髪混じりの髪で、最近散髪してライムクリームを使っている ―― これはすべて裏地の下部を詳細に調査することで推察できる。拡大鏡で見ると、短い髪が沢山ついていて、その切断面は散髪屋のハサミによる鋭利なものだ。髪は帽子に粘着しているようだし、ライムクリームの香りがはっきり残っている。この埃は、君も分かるとおり、外の通りの砂っぽい灰色のものではなく、家の中の柔らかい褐色のものだ。これは、この帽子が部屋の中にほとんど掛けられたままになっていたことを示している。内側の汗の跡は、かぶっていた人間が非常に多量の汗をかいたというはっきりした証拠だ。それゆえに、よく運動しているということはまずない」

「しかし、彼の妻は…君は夫に対する愛情が無くなったと言ったが」

「この帽子は何週間もブラシを掛けられていない。ワトソン、もし君が一週間分の埃が積もった帽子を被り、しかも君の妻がそんな状態で外出するのを許す場面を目にすれば、僕はきっと、君も妻の愛情を失うほど悲惨な状態だと心配になるに違いない」

「しかし独身かもしれないよ」

「それはない。男は妻へのプレゼントとして家にガチョウを持って帰るところだったんだ。鳥の足にカードがあったじゃないか」

「何にでも答えられるんだな。しかし、彼の家にガスが引かれていないというのは一体どうやって推理したのだ?」

「獣脂の染みが一つ、いや二つくらいなら、偶然付くこともあるかもしれない。しかし五つも見つければ、この帽子が燃えている獣脂ロウソクと頻繁に接触していたのは、ほぼ間違いない。おそらく帽子を片手に、もう一方の手に蝋がこぼれるロウソクを持って、上の階まで夜歩いて上がるのだ。そうでないにしても、ガスの炎から獣脂の染みがつく事はない。これで納得したかね?」

「確かに天才的な推理だ」私は笑いながら言った。「しかし君がさっき言ったように、犯罪は行われていないし、ガチョウの紛失以外に実害はない。この推理は、ちょっとエネルギーの無駄遣いだったようだな」

シャーロックホームズが返答のために口を開けた時、ドアがパッと開いてポーターのピーターソンが、驚きに呆然となったような表情で、顔を真っ赤にして部屋に飛び込んで来た。

「ガチョウが、ホームズさん!ガチョウが!」ピーターソンはあえいだ。