コンプリート・シャーロック・ホームズ
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警報がこんなに早く伝わるとは信じられなかった。振り返ると、大きな家全体が煌々と灯りに包まれていた。正面の扉が開かれ、馬車道を駆け出す人影があった。庭全体が人でいっぱいで、我々がベランダから姿を現した時、一人の男がここにいたぞと言う声をあげ、我々のすぐ後ろから追いかけて来た。ホームズは敷地内を熟知しているらしく、小さな植え込みの間を素早く縫うように走った。私は彼のすぐ後につき、第一発見者があえぎながら後を追ってきた。我々の道を遮る壁は6フィートの高さがあった。しかしホームズはその上に飛び上がり越えていった。私が同じようにした時、後ろにいた男の手が私の足首をつかむのを感じた。しかし私は蹴り飛ばして振りほどき、草の生えた笠石を這うようにして越えた。どこかの茂みで私は前のめりに倒れたが、ホームズがすぐに私を助け起こしてくれた。そして私達は一緒に広大なハムステッド荒野を横切って走り去った。ホームズが遂に立ち止まり耳を澄ませるまで、二マイルは走ったようだ。背後は完全な静寂に包まれていた。私達は追跡者を振り払い、危機を脱した。

ここに記した注目すべき経験をした次の日、私達が朝食をとった後、朝の葉巻をくゆらせていると、深刻そうな顔をしたロンドン警視庁のレストレード氏が、つましい応接室に案内された。

「おはようございます、ホームズさん」彼は言った。「おはようございます。今非常に忙しくはないですか?」

「君の話を聞けないほど忙しくはなさそうだな」

「ひょっとして、もし今特別な事件が無いなら、つい昨夜ハムステッドで起きたばかりの非常に注目すべき事件について、我々を手助けしていただけないでしょうか」

「おやおや!」ホームズは言った。「どんな事件だ?」

「殺人です、 ―― 非常に劇的で注目すべき殺人です。私はこういう事件であなたがどれほど鋭いかを知っています。だからもしあなたにアップルドー・タワーズまでご足労いただき、助言を頂く恩恵にあずかれれば非常にありがたいです。これは全く普通の犯罪ではありません。警察はこのミルヴァートン氏を長い間見張っていました。そして、ここだけの話ですが、彼はちょっとした悪党でした。彼はゆすり目的に使う手紙を持っていることで知られていました。この手紙は全部殺人犯たちに燃やされました。金目のものは盗られていません。犯人らはいい身分の男達の可能性が高いので、社会的な暴露を防ぐ事だけが目的だったようです」

「犯人ら?」ホームズは言った。「複数犯か?」

「ええ、二人組でした。彼らはもう一歩で現行犯で捕まっているところでした。足跡があり、彼らの人相は分かっています。まず突き止める事ができると思います。最初の奴はちょっと機敏でしたが、二人目の奴は庭師の下働きに捕まりました。そしてちょっと格闘した後逃げて行きました。彼は中背で屈強な体格の男で、 ―― 四角い顎、太い首、口髭、目にはマスクをしていました」

「かなり曖昧だな」シャーロックホームズは言った。「そうだ、ワトソンの人相みたいじゃないか!」

「本当だ」警部は楽しそうに言った。「ワトソン博士の人相と言っていいかもしれませんね」

「まあ、残念だが君の手助けはできないよ、レストレード」ホームズは言った。「実は僕はこのミルヴァートンという奴を知っていた。そしてロンドンで一番危険なやつだと見なしていた。そして間違いなく法律で罰せられない犯罪が行われていると考えていた。だからある程度、個人的な復讐も正当化できるだろう。だめだ、議論の余地はないよ。僕は心を決めている。僕は被害者よりも犯人達に共感するから、この事件は扱わないよ」

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ホームズは目撃した惨劇について、私には一言も話さなかった。しかし彼は午前中ずっと非常に考え込んでいる様子だった。そして、うつろな目とぼんやりした態度から、私には彼が何かを思い出そうと努力しているような印象を受けた。彼が突然立ち上がったのは私達が昼食をとっている時だった。「なんと、ワトソン、分かったぞ!」彼は叫んだ。「帽子をとれ!僕と一緒に来い!」彼は全速力でベーカー街を下り、オックスフォード街に沿ってほとんどリージェント・サーカスに達するところまで走った。左側に、有名人や美女の写真で埋まった店のショーウィンドーがあった。ホームズの視線はその一つに釘付けとなり、私は彼の視線をたどって、高貴な頭に高いダイアモンドのティアラをかぶり、宮中礼服に身を包んだ堂々として威厳ある女性の写真を見た。私は順に見て行った。繊細に曲がった鼻、際立った眉、真っ直ぐな口元、そしてその下にある強く小さな顎。その後、私はかつて彼女の夫であった偉大な貴族であり政治家の由緒正しい称号を読んで、息を飲んだ。私はホームズと目を見合わせた。そしてホームズは私たちがショーウィンドーに背を向けた時、唇に指を当てた。