コンプリート・シャーロック・ホームズ
ホーム長編緋色の研究四つの署名バスカヴィル家の犬恐怖の谷短編シャーロック・ホームズの冒険シャーロック・ホームズの回想シャーロック・ホームズの帰還最後の挨拶 シャーロック・ホームズの事件簿

約束の時刻ちょうどに階段を上がる重々しい足音が聞こえ、有名な億万長者が部屋の中に姿を現した。私は彼を見た瞬間、さっきの管理人の恐れと嫌悪だけでなく、仕事上で競争相手となった数々の人間が彼に向かって投げかけた呪いの言葉の意味が分かった。もし私が彫刻家で、鉄の神経に乾いた道徳心を持つ、成り上がった実業家の理想像を彫りたいと願えば、きっとモデルとして、ネイル・ギブソン氏を選んだだろう。彼の背の高い痩せてゴツゴツした体つきは飢えと強欲を思わせた。エイブラハム・リンカーンを、崇高な目的ではなく下世話な目的へと調律した人物、こう言えばこの男がある程度分かるだろう。彼の顔は花崗岩を掘り込んだようだった。固い決意、際立った目鼻立ち、無慈悲、その上に多くの危機の傷跡として深い皺がよっていた。冷たい灰色の目が、剛毛の眉毛の下で抜け目なく我々を順に探るように見ていた。彼はホームズが私の名前を告げた時、おざなりな態度で一礼し、その後、支配的で横柄な態度で、椅子をホームズの近くに引き寄せ、骨ばった膝をほとんど触れんばかりにして座った。

「ここで言っておきたい、ホームズ君」彼は切り出した。「今回の件で金は問題ではない。真実を明らかに出来るなら札束を燃やしてもかまわん。この女性は無実で、嫌疑を晴らさねばならない。そしてそれは君次第なんだ。いくら欲しい!」

「僕の調査料は固定です」ホームズは冷たく言った。「僕は値段を変えません。全額免除する時以外はね」

「そうか。もし金額が君には問題でないのなら、評判を考えろ。もし君がこの事件を上手く解決すれば、イギリスとアメリカのあらゆる新聞が君の事を宣伝するだろう。君は二大陸の噂になるぞ」

「ありがとうございます、ギブソンさん。私は宣伝が必要とは思っていません。これを知ると驚くかもしれませんが、私は名前を出さずに仕事をするのが性に合います。そして私をひきつけるのは事件そのものです。しかしこういう話は時間の無駄遣いですね。事実関係についてお話しませんか」

「重要なことは新聞記事で全部知っていると思う。君の手助けが出来るような事を追加できるか分からんな。しかしそれにさらに光を当てたいと思うものがあるなら、・・・・結構だ。ここでお話しよう」

「一点だけあります」

「それは何だ?」

「あなたとミス・ダンバーは、正確にはどういう関係だったんですか?」

金鉱王は激しく驚いた様子で椅子から半分腰を浮かせた。その後、筋金入りの冷静さが戻ってきた。

「こんな質問をするのは君の職務権限の範囲だと思うことにしよう・・・・そして恐らく君の義務だと・・・・ホームズ君」

「まあ、そういう事ですね」ホームズが言った。

「それでは、君に断言しよう。我々の関係は完全に雇用主と被雇用者だ。その女性が子供と一緒の時は別だが、それ以外は話したことも会ったこともない」

ホームズは椅子から立ち上がった。

「私はこれでも忙しい人間です、ギブソンさん」彼は言った。「無駄話をする時間も趣味もありません。お引き取り下さい」

訪問者も立ち上がっていた。そして彼の巨大なしまりのない体がホームズの上にそびえ立っていた。ぼさぼさの眉の下の目が怒りに輝き、色の悪い頬に赤みが差した。

「いったいそれはどういう意味だ、ホームズ君?この事件の調査ができんと言うのか?」

「ええ、ギブソンさん、少なくともあなたからの依頼はお断りします。はっきりそう申し上げたはずですが」

「それは良く分かった。しかし腹の底で何を企んでいる?調査費を吊り上げる気か。それとも取り組むのが怖いのか。そうでなきゃなんだ?私にははっきりした答えを聞く権利がある」

「まあ、それはどうでしょうかね」ホームズが言った。「一つだけお答えしましょう。この事件は間違った情報を加えてさらに複雑にしなくても、最初から十分複雑だということです」

「私が嘘をついているという意味だな」

「まあ、私は出来る限り気を使った表現をしようとしていたのですが、あなたがどうしてもその言葉に固執するのなら否定はしません」

私は素早く立ち上がった。億万長者の表情が最高に険しくなって悪魔のような形相になり、大きな握り拳を振り上げたからだ。ホームズは物憂げに微笑んでパイプに手を伸ばした。

illustration

「騒がないで下さい、ギブソンさん。朝食後はちょっとした言い合いでも精神が乱れるみたいですからね。朝の空気を吸いながら散歩をして、ちょっと落ち着いて考えれば、あなたには非常に有益ではないでしょうかね」

金鉱王はぐっと踏ん張って怒りを抑えた。私は感心せざるをえなかった。素晴らしい自制心で、彼の態度は燃え上がる怒りから、凍りつくような軽蔑の冷淡さへと一瞬で変化した。

「そうか、それが君の考えか。君には自分なりの仕事のやり方があると見た。私は君の意思に反してこの事件を引き受けさせることはできない。君は今朝、非常にまずいことをやったな、ホームズ君、私は君以上に力を持った人間を破滅させてきた。私の意にそむいて、いい結果になった奴はおらんのだ」

「そう言った人は山ほどいますが、それでも僕はご覧のとおりです」ホームズは微笑んで言った。「さて、それではお引き取りください、ギブソンさん。まだまだ修行が足りませんな」