コンプリート・シャーロック・ホームズ
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彼は二通目の手紙を取り上げた。これは最初の手紙に夢中になっている間、テーブルに置かれていたのに気づかなかったものだ。読み始めた当初は、楽しそうな笑顔だったが、それが徐々に消え、熱心な興味と集中の表情へと変わっていった。読み終わったあと、彼は手紙を指ではさんでだらりと下げ、座ったまましばらく考え込んでいた。やがて、はっとした様子で、夢想から目覚めた。

「チーズマン屋敷、ランバーレイか。ランバーレイってどの辺だ?ワトソン」

「ホーシャムの南、サセックス*だ」

「そんなに遠くないよな?それにチーズマン屋敷とは?」

「その地方のことは知っているよ、ホームズ。何世紀も前、最初に家を建てた人間の名前がついた家がいっぱいある。オードリー屋敷、ハーヴィー屋敷、カリトン屋敷などだ、 ―― 人は忘れられたが、その名前は家として今でも残っている」

「なるほど」ホームズはそっけなく言った。これは、誇り高く知らないことがない彼の性格の異常な側面の一つだった。彼は非常に手早く新しい情報を概要つきで正確に頭の中に格納するのに、それを与えた者に感謝することはほとんどなかった。「仕事が終わるまでに、ランバーレイのチーズマン屋敷についてかなりたくさん知ることになりそうな気がするな。この手紙は僕が思った通り、ロバート・ファーガソンからのものだ。そうだ、君と面識があると書いてあるよ」

「私と!」

「読んでみるといい」

彼はその手紙を渡した。表には言われた住所が書かれていた。

シャーロックホームズ様
私の弁護士よりあなたを推薦されました。しかしこの件は途方もなく繊細で、説明が非常に困難です。これは私の友人に関係することで、私は彼の代理人として行動しています。この紳士は約五年前にペルーの女性と結婚しました。硝酸の輸入の関係で知り合ったペルー商人の娘です。女性は非常に美人でしたが、生まれた国も宗教も違うという現実によって、夫と妻の間には価値観や感情のすれ違いが絶えませんでした。ですからしばらく経つと夫の妻への愛情は冷め、彼はこの結婚が失敗だったと思うようになりました。彼は妻に想像を超えた理解不能の側面があると感じました。これは非常に痛ましいことでした。なぜなら妻は誰よりも夫を溺愛していて、すべてにおいて完全に献身的だったからです。
ここから先は、お会いした際にもっと詳しくお話しするつもりです。この手紙ではただ、あなたがこの事件に興味を持たれるかどうかはっきりさせるため、状況をざっと簡単に説明するだけにします。この女性は普段の愛らしく優しい性格には全く似つかわしくない、ちょっと奇妙な行動を見せるようになりました。夫は再婚で、最初の妻との間に一人の息子がいました。この少年はその時15歳でした。非常に魅力的で優しい少年です。しかし子供のときの事故で不幸にも障害が残りました。このかわいそうな子供に妻が何の理由もなく暴力を振るっているのが二度目撃されています。一度は、棒で打ったので、手にひどいみみずばれが残りました。
しかしこれは彼女が自分の生んだ一歳にもならないかわいい男の赤ん坊にやったことに比べれば、まだましでした。一ヶ月前のあるとき、乳母がこの赤ん坊から数分間離れました。赤ん坊が痛みを訴えるように大声で泣き出し、乳母は戻りました。乳母が部屋に駆け込んだ時、雇い主の妻が赤ん坊に覆いかぶさって首を噛んでいるらしい状況を目にしました。首筋に小さな傷があってそこから血が流れ出していました。乳母は非常に恐ろしくなって夫を呼ぼうとしましたが、妻は呼ばないでくれと懇願し、実際に口止め料として5ポンドを渡しました。理由は何も語りませんでしたが、とりあえずその場は収まりました。
しかしこの事件は乳母の心に恐ろしい印象を残しました。そしてこの時から乳母は女主人をしっかりと見張り始め、かわいい赤ん坊をそれまで以上に厳重に警護し続けました。乳母には、彼女が母親を見張っている時、母親も彼女を見張っていて、やむなく赤ん坊を一人にしなければならなくなるといつでも、母親は赤ん坊を攻撃しようと待ち構えているように思えました。昼も夜も乳母は赤ん坊をかばいました。そして昼も夜も母親は狼が子羊を待ち伏せでもするように黙って見張っていました。きっととても信じられない話だと思うでしょうが、それでも私は真剣に受け止めていただくようにお願いします、これには、子供の命と夫の人生が掛かっています。
遂に恐ろしい日がやってきました。夫にこれ以上事実を隠しおおせなくなったのです。乳母の神経はすり減り、これ以上の緊張には耐えられませんでした。そこで彼女は全てを夫に打ち明けました。夫は、今あなたがそう思っているかもしれませんが、荒唐無稽だと感じました。彼は愛情豊かな妻で、継子への暴力を除けば、愛情豊かな母親だと知っていました。いったい、どうして彼女が幼い我が子を傷つけるはずがあるでしょう?彼は乳母に、夢でも見ていたんだろう、そんな疑念は馬鹿げている、そんな風に主人を中傷するのは許せない、と言いました。話している最中、突然泣き叫ぶ声がしました。乳母と夫は一緒に育児室に駆け込みました。妻はベビーベッドの側にひざまずいていましたが、起き上がりました。赤ん坊のむき出しの首とシーツに血がこぼれていました。この場面を見たときの夫の気持ちを想像してください、ホームズさん。彼は恐怖に叫び声をあげて、妻の顔を明るいほうに向け、唇の周りが全部血まみれになっているのを確認しました。妻だったのです、・・・・妻は間違いなく・・・・赤ん坊の血を飲んでいたのです。
状況はこの通りです。妻は今自室に閉じ込められています。何も話しません。夫は半分狂わんばかりです。彼も私も吸血鬼のことは名前以外にはほとんど知りません。彼は外国のお伽話だと考えていました。それなのにここ、イギリスのサセックスの真ん中で、・・・・いや、あとは全てあなたに明日の朝お話します。会ってくれますか?狂いそうな男を救うためにその偉大な力を使っていただけますか?もしそうでしたら、お手数ですが、ランバーレイ、チーズマン屋敷のファーガソンまで電報を打ってください。そうすれば10時までにご自宅にお伺いします。
敬具
ロバート・ファーガソン
追伸。あなたのご友人のワトソンは私がリッチモンドでスリークォーターだった時、ブラックヒースでラグビーをしていたと思います。私が自己紹介できるのはこれだけです。

「もちろん彼のことは覚えているよ」私は手紙を下ろして言った。「ビッグ・ボブ・ファーガソン、リッチモンドで過去最高のスリークォーターだ。いつも気さくな奴だったな。友人の事件にこんなにまで肩入れするとは彼らしいな」

ホームズは考え込むように私を見て首を振った。

「君は底なしだな、ワトソン」彼は言った。「君にはまだまだ無限の可能性があるということだな。悪いが、電文を書きとめてくれ。『あなたの事件を喜んでお引き受けします』」

「あなたの事件!」

「この探偵局が馬鹿の巣窟だと思われても困る。これはもちろん彼の事件だ。電報を打って明日の朝までこの件はお預けということにしよう」