コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「おぞましいものだな」彼は言った。「指を刺さないように気をつけろ。これが入手できたのは喜ばしいな。おそらく敵の手持ちはこれで全部と見た。君にせよ、僕にせよ、近いうちに自分に突き刺さる恐れが少なくなった。僕としては、こいつと対峙するくらいなら、マティーニ弾の方がまだましだ。6マイル歩く気があるか、ワトソン?」

「もちろん」私は答えた。

「足は大丈夫か?」

「ああ、もちろん」

「さあ行こう。犬よ、老犬トビー!臭え、トビー、臭え!」彼はクレオソートのハンカチを犬の鼻先に押し付けた。犬は毛だらけの足を広げ、ワインの鑑定家が名高いビンテージの芳香を嗅ぐかのように、頭を非常におかしな角度に傾けていた。ホームズはハンカチを遠くに投げ捨て、雑種犬の首輪に丈夫な綱をつけて水樽の下に連れて行った。犬はすぐに、甲高い震えるような声を連続的に上げ始め、鼻を地面につけ尻尾を立てて、パタパタと追跡を始めた。手綱はピンと張り、人間は全速力で走り続けなければならない勢いだった。

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東の空が少しずつ白んできて、今や冷たい灰色の光の中で、少し遠くが見通せるようになった。四角く黒い人影のない窓の巨大な家が、飾りのない高い壁に囲まれ、悲しく侘しいたたずまいで背後にそびえ立っていた。ホームズと私は溝や穴で傷だらけになった地面を真っ直ぐに進んだ。散乱した土の山と成長の悪い低木で、この敷地全体が荒涼とした不吉な様相を帯び、垂れ込める暗い惨劇にふさわしい光景になっていた。

境界の塀に着くとトビーは、熱心にクンクン泣きながら、その影に沿って走った。そしてぶなの若木に覆われた角まで来ると、遂に立ち止まった。そこは、二つの壁の接合部で、何個か煉瓦が外れていた。そして、煉瓦が抜けた穴は、あたかも梯子として頻繁に利用されたように磨り減り、下の部分は丸くなっていた。ホームズはそこをよじ登ると、私から犬を受け取って、向こう側に下ろした。

「これが木製義足男の手の跡だ」私が隣に登った時、彼はこう言った。「白いしっくいの上にかすかに血の跡が見えるだろう。昨日から大雨が降らなかったのは、本当に幸運だった!28時間後だとしても、道の臭いは残っているはずだ」

途中通り抜けるロンドンの道の激しい往来を考えた時、正直私は疑問に思っていた。しかしその疑問はすぐに解消した。トビーはまったくためらいもせず、横道にもそれず、奇妙に揺れるよたよたした足取りで歩きつづけた。明らかにクレオソートの刺激臭は、他のどんな臭いよりもはっきりしているようだった。

「頼むから、想像しないでくれ」ホームズは言った。「僕が、犯人の一人が足に化学薬品をつけるという、この単なる偶然を、ただひとつの頼みの綱にしているなどとはな。僕は、他にも色々な方法で犯人を追えるだけの手がかりをつかんでいる。だが、これが一番手っ取り早い。そして、幸運に巡り会った以上、それを無視するのは、非難されるべき行動だ。しかしこの偶然のおかげで、一度は間違いなく興味深い知的な事件になるはずだったのが、台無しだな。もしこんなに簡単な手がかりがなければ、功績を得られたかもしれないが」

「功績はあるよ。あり余るほど」私は言った。「ホームズ、私は、君がこの事件で結論に至った手法は、ジェファーソン・ホープ殺人事件以上に驚異的だと思う。私には今回の事件は、もっと深く、もっと不可解に思える。例えば、木の義足の男について、君はなぜあそこまで確信を持って説明する事ができたんだ?」

「フン、ワトソン!それは単純自明だ。僕は芝居じみた態度はとりたくない。何もかもすべてが明白でガラス張りのようだ。受刑囚監視の指揮をしている二人の将校が隠された財宝に関する重要な秘密を知る。ジョナサン・スモールという名前のイギリス人が、二人のために地図を作成する。モースタン長官が持っていた図にジョナサン・スモールの名前が書いてあったのは覚えているだろう。スモールは、彼自身と共犯者の代表として、その図に書名をする、 ―― 四つの署名、彼はちょっとドラマチックに、そう呼んだ。この図の助けを借りて、将校二人は、 ―― またはどちらか一人が ―― 、その財宝を手に入れてイギリスに運ぶ。おそらく、スモールは到底納得できない状態におかれたまま残された。さて、それでは、なぜジョナサン・スモールは自分自身で財宝を手に入れなかったのか。答えは明白だ。あの図の日付は、モースタンが囚人の監督を任された頃のものだ。ジョナサン・スモールが財宝を手に入れられなかった理由は、彼も共犯者も、囚人であり外に出られなかったからだ」

「しかしそれはただの憶測だろう」私は言った。