コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「ホームズ君、封筒は細長く薄い紙で水色だ。うずくまったライオンの模様がついた赤い蝋で封印されている。宛名書きは大きく太い手書きで…」

「申し訳ありません」ホームズが言った、「それは興味深いですし、そういう詳細は実に大事ですが、もっと根本的なことをお尋ねしなければなりません。その手紙はどんな内容ですか?」

「それは国家最高機密だ、残念だが君に話すことは出来ない。それに重要な事とも思えない。もし君が評判通りの能力を発揮すれば、私が説明した封筒を中味ごと見つけることができるだろう。君は国家から褒章を受けることになるだろうし、我々にできることならどんな謝礼でもする」

ホームズは笑顔で立ち上がった。

「あなた方二人はこの国で最も忙しい方々です」彼は言った。「そして私も自分なりにつましい仕事でたくさんの依頼が来ています。この件でお役に立てないのはまことに残念です。しかしお話を続けるのは時間の浪費でしょう」

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首相は落ち込んだ目に、内閣を縮み上がらてきた短気な凄まじい光を輝かせ、さっと立ち上がった。「こんなことは覚えがない」彼は言いかけたが、怒りを抑えて椅子に座りなおした。一、二分の間、誰も何も言わなかった。それから首相は肩をすぼめた。

「君の条件を飲むしかない、ホームズ君。確かに君は正しい。そして我々が完全な信頼を寄せないのに君に活躍を期待するのは理不尽と言うものだ」

「私も首相と同じ意見です」大臣が言った。

「では君と友人のワトソン博士を全面的に信頼して話そう。私は君達の愛国心にも訴えたい。我が国にとってこの事態が公になる以上の災難は想像できないのだ」

「我々を信用してもご心配には及びません」

「この手紙というのは、我が国の最近の植民地開発で動揺した、ある外国の支配者からのものだ。これはよく考えずに書かれたもので、責任は完全に彼一人にある。調べてみて分かったが、大使はまったくこのことを知らなかった。それだけではなく、非常に嘆かわしい表現が使われており、その中に非常に挑発的な意味合いを持つ語句が含まれていた。したがってこれが公表されれば、間違いなく我が国の国民感情は一触即発になるだろう。恐ろしい騒動になるに違いない。この手紙が公表されれば一週間とたたず、我が国が大戦争に巻き込まれるだろうという事を、私は何のためらいもなく断言できる」

ホームズは紙に名前を書き、首相に手渡した。

「その通り。彼の事だ。そして、 ―― この手紙は百億ポンドの支出と、十万人の人命に値するかもしれないのだが ―― 、それが今回の説明のつかない状況で消えてしまったのだ」

「書いた相手には連絡したのですか?」

「そうだ。暗号電報を送った」

「多分相手は手紙が公開されることを望んでいるのでしょう」

「いや、彼はすでに自分の行動が軽率で短気だったと理解しているようだ。それを確信できる証拠はつかんだ。万が一、この手紙が公表されれば、彼自身も彼の国もこちら以上に大きな打撃を受けるだろう」

「もしその通りなら、この手紙を表沙汰にして誰が利益を得るのでしょう?なぜ誰かがそれを盗んだり公開したいと思うのでしょうか?」

「それは、ホームズ君、高度な国際政治の領域の話をしなければならない。しかしヨーロッパ情勢を考えれば、その動機を察知するのに困難はあるまい。ヨーロッパ全体は一個の武装集団だ。軍事力が完全に均衡した二つの同盟がある。イギリスは両方の陣営を天秤にかけている。もしイギリスが一方の同盟と戦争することになれば、彼らがその戦争に参加しようとしまいと反対陣営の優位が確実になる。分かるか?」

「ええ、はっきりと。結果的に、この手紙を手に入れてその国とイギリスとを不和にするために公開することが、その権力者の敵側の利益になる」

「そうだ」

「では誰にこの文書が送られるでしょう?もしこれが敵の手に落ちれば」

「ヨーロッパの大きな大使館ならどこにでもだ。おそらくこの瞬間も全速力でその方面に向かっているだろう」

トレーニー・ホープ大臣は頭をがっくりと落としてうめき声をあげた。首相はそっと彼の肩に手を置いた。

「不幸な事故だ、トレーニー君。誰も君を責められん。君はどんな用心も怠っていなかった。さあ、ホームズ君、これで事実は全部語った。どうしたらいいと思う?」

シャーロックホームズは悲しげに首を振った。

「首相はこの手紙が取り戻せない限り戦争が起きるとお考えなんですね?」

「その可能性が非常に高い」

「では、首相、戦争に備えてください」

「厳しい意見だな、ホームズ君」

「事実をよく考えてください。夜の11時半から紛失が発覚するまで、ホープ氏と彼の妻の二人が手紙のある部屋にいたと話している以上、手紙が11時半以降に盗まれたとはとても考えられません。そうすると盗まれたのは、昨日の夜7時半から11時半の間です。おそらく最初の時刻に近いでしょう。誰が盗んだにしても、どうやらその存在を知っていたようですから、当然できる限り早く手に入れようとしたはずです。さて、もしこんなに重要な手紙がその時刻に盗まれたのなら、今、どこにあるでしょうか?それを手元に置いておく理由は誰にもありません。それを必要とする人物の元へすぐに渡されているでしょう。それに追いつくとか、跡を追うことさえできる可能性があるでしょうか?もう我々の手の届かない所に行っています」

首相は長椅子から立ち上がった。

「君の言う事は完全に論理的だ、ホームズ君。事態は完全に取り返しのつかないところまで行ったようだ」

「議論のために想定してみましょう、もしこの手紙がメイドか従者に持ち去れらたとすれば・・・・」

「彼らは二人とも身元の確かな使用人です」

「あなた方の部屋は三階にあり、外側からの入り口はなく、そして内側からも誰にも見られずには入れないとおっしゃっていましたね。そうすると、誰か家の中の者が盗ったに違いありません。その窃盗犯は誰に手紙を渡すでしょうか?国際的スパイや秘密諜報員の一人です。僕はある程度、その名前を耳にしています。彼らの仲間の長とでも呼べる者が三人います。僕は一回りしてこの人物たちがいつも通りの場所にいるかどうか確認することから、調査を始めるつもりです。もし一人がいなくなっていれば、 ―― 特にその人物が昨夜からいないのなら ―― 、その文書の行き先について何か手がかりを得ることができるでしょう」

「なぜ姿を消さねばならんのですか?」欧州大臣が尋ねた。「おそらく、手紙をロンドンにある大使館に持って行くでしょう」

「そうではないと思いますね。こういう諜報員は独立して行動していて、彼らと大使館の関係は大抵ぎくしゃくしている」

首相はうなずいて賛同した。

「君の言う通りだと思う、ホームズ君。こんなに価値のある獲物は自分の手で本部に持っていくだろう。君の行動計画は素晴らしいものだと思う。その間、ホープ君、我々はこの一つの不運のために他の職務を怠けるわけにはいかない。もし日中に新しい展開があれば、君に連絡する。そして君も、当然捜査結果について知らせてくれるものと思っている」

二人の政治家は一礼して重々しく部屋から出て行った。