コンプリート・シャーロック・ホームズ
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私は次の朝起きて、最初にホームズをちらっとみてぞっとした。彼が小さな注射器を手にして暖炉の側に座っていたからだ。その器具は彼の性格のただ一つの弱点を連想させるのだが、私は彼が光り輝く注射器を手に持っているのを見て最悪の事態を覚悟した。彼は私の狼狽する顔を見て笑い出し、テーブルにそれを置いた。

「いや、いや、ワトソン、心配する事は全然ない。この状況では、これは邪悪な道具ではなく、むしろこの事件を解決する鍵となるものだ。この注射器に僕はすべての望みを託している。僕はちょっとした偵察行動からちょうど帰ってきたところだ。そして全ては順調だ。朝食をたっぷり食べておけ、ワトソン。僕は今日、アームストロング博士の後をつけるつもりだ。そしていったん後を追い出せば、彼を巣穴に追いやるまで僕は休んだり食事で中断はしない」

「それなら」私は言った。「朝食を持っていたほうがいい。馬車が戸口にあるぞ。彼は早く出発するつもりに違いない」

「心配するな。彼は行かせる。僕達が追いつけない所まで行けたら彼はたいしたものだ。朝食を食べ終わったら、一緒に下に降りよう。そしたら僕は君に探偵を紹介するよ。彼はこれから我々が取り組む仕事の非常に特出した専門家だ」

私たちは下の階に下り、私はホームズについて馬小屋のところまで行った。そこで彼は馬小屋の扉を開け、足の短い垂れ耳のビーグルとフォックスハウンドの雑種のような茶と白斑の犬を呼び出した。

「ポンペイを紹介しよう」彼は言った。「ポンペイは地元で最高の猟犬だ、 ―― 骨格を見ればわかるとおり足は全く遅い。しかし嗅覚にかけては信頼できる猟犬だ。さあポンペイ、お前は足が速くないかもしれないが、ロンドンの中年男二人にとって、お前は速すぎるだろうと思う。だから失礼してこの革紐を首輪に括りつけさせてもらうよ。さあ、ポンペイ、おいで。そしてお前の力を見せてくれ」彼は犬を博士の玄関まで連れて行った。犬は一瞬そこをかぎ回りその後、興奮した鋭い鳴き声をあげ、先へ先へと革紐をひっぱりながら道を駆け出した。30分後、我々は市街地を抜け田舎道を駆け足で走っていた。

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「何をしたんだ、ホームズ?」私は尋ねた。

「陳腐で時代遅れの手段だが、時には役に立つ。僕は今朝、博士の庭に入って注射器一杯のアニス香油を車輪にかけた。猟犬はここからジョン・オグローツまで、アニス香油を追いかけるだろう。そして我らが友、アームストロングは、ポンペイを振り切るためにはカム川を越えなければならないだろうな。ああ、ずる賢い奴め!あの晩僕をこうやってまいたのか!」

犬は突然幹線道路を曲がり、草ぼうぼうの横道に入った。この道を半マイル行くと、別の大通りに出た。そして道は右に大きく曲がり、ついさっき後にした街の方向に向かった。その先で、街の南側へ向かって大きくカーブし、ここまで来たのと反対方向に続いていた。

「じゃあ、後をつけられないためだけに、こんな遠回りをしたわけか?」ホームズは言った。「ここらの村で調査しても何も出てこなかったはずだ。博士はどう考えても、必要以上の用心をしているな。こんなに手の込んだ計略をする理由を知りたいものだ。右側の村はトランピントンに違いない。おや、なんだ!あのブルーム馬車が角を曲がってやって来るぞ。急げワトソン、 ―― 急げ、そうしないとおしまいだ!」

彼は嫌がるポンペイをひきずってくぐり戸を通り、野原に飛び出した。馬車がガタガタと通り過ぎていく時、我々はやっとの事で生垣の影に隠れた。私はアームストロング博士が中にいるのをちらりと目にした。彼は背中を丸め、手に顔をうずめ、まさに苦悩そのものという姿だった。ホームズがいっそう深刻な顔つきをしているので、彼もその姿を見たことが分かった。

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「この調査が何やら不吉な結末を迎えないかと心配だ」彼は言った。「それが分かるまでにもうそう長くはかかるまい。来い、ポンペイ!ああ、野原にあるあの小さな家だ!」

我々が目指していた場所に到着した事に疑問の余地はなかった。ポンペイは走り回り門の外側で熱心にクンクンと鳴いていた。その場所にブルーム馬車の車輪の跡がまだ見て取れた。細い歩道が一本、ぽつんと建った小屋へと向かっていた。ホームズは垣根に犬をつなぎ、我々は急いで進んだ。ホームズは小さく質素な扉をノックした。さらにもう一度ノックしたが返事はなかった。しかし小屋には人がいた。小さな音が聞こえてきたからだ、 ―― 悲嘆と絶望のうめき声のような、言いようもなく悲しい音だった。ホームズは意志を決めかねて立ち止まっていた。そのれから、ちょうど今来たばかりの道を振り返った。ブルーム馬車がやって来ていた。葦毛の馬は見間違えようがなかった。

「なんてことだ、博士が戻ってきた!」ホームズは叫んだ。「これで決まりだ。彼がやって来るまでにどういうことなのか、確認しなければならない」

彼は扉を開け、玄関ホールに踏み込んだ。鈍い音が大きくなり、長く低い悲嘆の泣き声となって我々の耳に飛び込んだ。それは上の階から聞こえていた。ホームズは駆け上がり、私は彼に続いた。彼は半分閉じられた扉を押し開き、私達は二人とも目の間の光景にぎょっとして立ちすくんだ。