コンプリート・シャーロック・ホームズ
ホーム長編緋色の研究四つの署名バスカヴィル家の犬恐怖の谷短編シャーロック・ホームズの冒険シャーロック・ホームズの回想シャーロック・ホームズの帰還最後の挨拶 シャーロック・ホームズの事件簿

「いや、これ以上は待てない。想像がつくだろうが、カールトン台地で現在事態が動いていて、我々は全員持ち場につくことになっている。君の素晴らしい成功の知らせを届けられればと願っていたのだがな。オルタモントは時刻を言わなかったのか?」

フォン・ボルクは電報をひっくり返した。

今夜間違いなく新しい点火プラグを持って行く
オルタモント

「点火プラグだと?」

「彼が自動車の専門家の役回りをして、私がガレージいっぱいの車を持つコレクターを演じているのはご存知でしょう。我々の暗号で、表面に出てくるものは全て補修部品の名前を使っています。もし彼がラジエーターの話をすれば、それは戦艦で、オイルランプは巡洋艦、などです。点火プラグは海軍暗号です」

「12時にポーツマスからか」書記長は宛名を確かめながら言った。「ところで、彼の見返りは何だ?」

「この仕事だけで500ポンド。もちろん給与も支払っています」

「強欲な奴だ。この売国奴達は役に立つが、金を出すのは惜しいな」

「私はオルタモントには出し惜しみはしません。彼は素晴らしい工作員です。彼にたんまりとはずみさえすれば、少なくとも彼は品物を発送してくる、 ―― 彼の表現を使えばね。それに彼は売国奴ではありません。保証してもいいですが、イギリスに対する怨念においては、辛酸をなめ尽くしたアイルランド系アメリカ人*に比べるとほとんどの汎ドイツユンカー貴族など、子鳩も同然です。」

「ほお、アイルランド系アメリカ人なのか?」

「彼のなまりを聞けば疑問は起きないでしょうね。実を言うと、時々私も彼が何を言っているか分からないときがあります。彼はイギリスの王と一緒にキングズイングリッシュにも宣戦を布告しているようです。本当に行かなければならないのですか?彼はすぐにもここに来るかもしれませんよ」

「だめだ。申し訳ないがすでに時間を過ぎている。明日の朝早く来てくれ。そして君がその暗号書を持ってヨーク公階段*に面する小さな扉をくぐれば、君はイギリスでの経歴に輝かしい終止符を打つことができる。なんと!トカイか!」彼は盆の上に二つのグラスと一緒に置いてある厳重に封印されて埃をかぶった瓶を指差した。

「出かける前に一杯いかがですか?」

「いや、結構だ。しかし、豪勢だな」

「オルタモントはワインの味には舌が肥えていて、この私のトカイがお気に入りです。神経質な奴なんで、ちょっとしたことでも機嫌をとっておかねばなりません。実際、気を遣うんですよ」彼らはもう一度テラスに出ていた。そしてテラスの一番向こうで、男爵の運転手がさっとボタンを押すと、大きな車が震え出し、ドッドッと音を立てた。「あれはハリッジの明かりだな」書記長がダスターコートを着ながら言った。「なんと全てが静かで平和に見えることか。一週間と経たずに別の明かりが見えるだろう。そしてイギリス沿岸は今よりも平穏でなくなるだろう!空も、もしあの素晴らしいツェッペリン号が見込みどおりの働きをすればこんなに平穏でないかもしれないな。ところで、あれは誰だ?」

彼らの後ろの窓で明かりがついてるのは一つだけだった。中にランプが置いてあり、その側のテーブルの前に座っているのは、カントリーキャップをかぶった赤ら顔の愛くるしい女性だった。彼女は編み物に向かって背中を丸め、横のストールに座った大きな黒猫が出す手を時々払っていた。

「あれはマーサです。ここに残したただ一人の使用人です」

書記長はクスクスと笑った。

「彼女はほとんど大英帝国の化身だな」彼は言った。「完全に自分の事にかかりきりで、ゆったりとした眠けを誘う雰囲気がな。さて、失礼するよ、フォン・ボルク!」彼は最後に手を振って挨拶すると車に飛び乗った。次の瞬間、ヘッドライトから放たれた金色の円錐形の光が暗闇を裂いて前方を照らし出した。書記長は豪華な大型車のクッションにもたれかかっていた。彼は迫り来るヨーロッパの悲劇に頭が一杯だったので、彼の車が田舎道をさっと回った時、反対から来る小さなフォード車をあわや踏み潰しそうになったのにほとんど気づかなかった。