コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「夜になった時、私はこれほど貴重なものを仕事場に置いて帰るのは軽率だと感じました。銀行の金庫が荒らされる事件は以前にもありました。私の銀行もいつ狙われるか分かりません。もしそんな事になれば、私はどんな恐ろしい立場に追い込まれることになるでしょう。結局、私はこの先の数日間、ずっとこの箱を持ち歩き、絶対に手元から離さないでおこうと決心しました。私はこう考えて、辻馬車を呼び、宝冠を手にしてストリーサムにある自宅まで帰りました。宝冠を二階に持って上がり、私の衣裳部屋の箪笥の中に入れて鍵をかけるまで、満足に息もつけませんでした」

「ホームズさんには完全に状況を把握していただきたいので、家に住んでいる人間についてここで簡単に紹介します。御者と給仕は住み込みではありません。両方とも事件から除外していいでしょう。三人のメイドがおりますが、これは長い年月を共にしており、完全に信用がおけます。これ以外に、何ヶ月か前から働き出した第二メイドのルーシー・パーがおります。しかし、ルーシーは素晴らしい紹介状を持ってきました。そしてその働きぶりは、これまでずっと満足のいくものでした。ルーシーはとても美しい女性で、男がひき付けられ、機会があれば近寄ってきます。私が気づいたルーシーの問題点は、これだけです。しかし、彼女はあらゆる面から見ても全く善良な人間で、信頼を置くことができます」

「使用人についてはこれくらいにしましょう。私の家族は非常に少ないので、説明に時間はかかりません。私は妻に先立たれ、アーサーという一人息子がいます。ホームズさん、息子にはこれまでずっと失望してきました。耐え難いほどの失望です。もちろんその原因は私にあります。周りの人間は私が甘やかしすぎたと言います。おそらくその通りでしょう。愛する妻が亡くなった時、息子以外に愛情を注げる相手はいないと感じました。ほんの一瞬でも息子の顔から笑顔が消えることが耐えられませんでした。私は息子の望みを何でもかなえてきました。多分、もっと厳しくしたほうが良かったのでしょう。しかし、その時は息子の望みどおりにするのが最善だと思っていたのです」

「当然、私は息子に自分の仕事の後を継いで欲しいと思いました。しかし、息子は実業家向きの性格ではありませんでした。気性が荒く気まぐれで、実を言うと、私は息子に大金を扱わせるほどの信頼をおけませんでした。息子は若い頃、ある貴族クラブの会員になり、人当たりが良かったために資産家で金遣いの荒い友人が大勢できました。息子はトランプにのめり込み、散財して金に困るようになりました。あげくの果てに、何度も私のところに来ては、賭博の借金を払うために小遣いの前借りをせがみました。息子は付き合っている危険な仲間と何回も手を切ろうとしました。しかしいつもサー・ジョージ・バーンウェルという友人の影響で、仲間に引き戻されることになりました」

「実際、ジョージ・バーンウェルのような男なら、息子に影響を与える事が出来たとしても不思議ではありませんでした。息子は彼をよく家に連れて来ましたが、気が付くと私自身が、知らず知らずに彼の態度に魅了されそうになりました。ジョージ・バーンウェルは息子より年上でした。完全に世慣れた男で、色々な場所に行って色々な物を見ており、素晴らしく話し上手で驚くほどの男前でした。しかし彼の外見の魅力に惑わされずに冷静に考えてみれば、その皮肉なしゃべり方、私がちらりと見かけた目つきなどから、ジョージ・バーンウェルが全く信用の置けない人間だということは間違いないと思いました。可愛いメアリーも私の考えと同意見です。メアリーは女性の直感ですぐに人格を見抜きます」

「これで、まだ説明していないのはメアリーだけになりました。メアリーは私の姪です。私の兄は五年前、メアリー一人を残して死にました。私はメアリーを養女にし、それ以来ずっと自分の娘のように育ててきました。メアリーは我が家の太陽です。優しく、愛らしく、美しく、家事を素晴らしく切り盛りし、それでもって女性としてこの上なく愛情豊かで物静かで優しい。メアリーは私の右腕です。彼女無しでやっていけるかどうか自信がありません。ただ一つだけ、私の思い通りにならなかったことがありました。息子はメアリーを真剣に愛し、結婚を二度申し込んだのですが、二度とも彼女は断りました。もし息子を正しい道に戻す事ができる人間がいるとすれば、それはメアリーだろうと思います。息子がメアリーと結婚していれば、息子の人生はまったく変わっていたかもしれません。しかし今では、ああ、もう遅すぎます、完全に遅すぎます!」

「ホームズさん、これで私の家で生活している人間は全部説明しました。次に私の悲惨な話をしましょう」