コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「すまない、ワトソン」彼は我々の乗っていた列車がカーブを回って消えていくのを見つめながら言った。「僕のほんの思いつきのようなもので君を巻き添えにして申し訳ない。しかし僕の名誉にかけて、ワトソン、この事件を単にこのままにしておくことは出来ない。僕の持っているすべての直感がこれに異を唱えている。おかしい、 ―― すべてがおかしい ―― 、誓ってもいい、おかしい。しかし婦人の話は完璧だ。メイドの裏づけも十分だ。詳細は見事に正確だ。それに対抗しうるどんなものを僕が持っているというのか?三つのワイングラス、それだけだ。しかしだ、 ―― もし、僕がこの事件をありふれたものと軽視していなかったら、 ―― もし、僕が目にしたはずのものすべてを注意して調べていたら、 ―― もし、僕たちがこの事件に最初から取り組んでいれば、 ―― もし、僕の心が前もって用意された話にゆがめられていなければ、もっとしっかりとした判断材料を何か見つけていたのではないだろうか?絶対にそうだったはずだ。チズルハースト行きの列車が来るまでこのベンチに腰を下ろそう、ワトソン。そして君に証拠を列挙させてくれ。まず最初に君の心から、あのメイドや夫人が全部本当の事を言ったはずだという考えを追い出すようにお願いしたい。夫人の魅力的な性格によって、判断がゆがめられてはいけない」

「もし僕達が冷静に判断すれば、彼女の話には確かに疑念を起こすような細かい点がある。強盗たちは二週間前にシデナムで荒稼ぎをした。この事件と、犯人の人相については新聞に載った。だから彼らの事は、強盗が出てくる作り話をでっちあげようとする人間なら誰でも自然に思いつくだろう。実際は大儲けをした強盗たちは、普通獲物を静かに使うだけで、それ以上危険な仕事に乗り出したりしない。さらにだよ。 ―― 強盗があんなに早い時刻に押し入るのは不自然だ。 ―― 間違いなくそれで叫び声を上げると分かりそうなのに、強盗が夫人を叫ばせまいとして殴るのは不自然だ。 ―― 男一人を圧倒できるだけの人数がいる時に、殺人を犯すのは不自然だ。 ―― 手近にいっぱい盗る物がある時に、限られた略奪品で満足するのは不自然だ。 ―― そして最後に、こういう男達が酒瓶を飲み干さないというのはどうも不自然だ。この不自然さをどう思う、ワトソン?」

「そうやって積み重ねると確かに無視できないな。それでも、一つ一つは極めてありうることだ。すべての中で最も不自然だと思うのは、私の考えでは夫人を椅子に縛り付けたことかな」

「まあ、僕はそれについてはあまり確信がない、ワトソン。彼女を殺すか、あのように縛って彼らの逃走を直ちに連絡出来ないようにするか、どっちかしかないのは明らかだ。しかしいずれにせよ、あの夫人の話の中に、ありそうもない要素が確かに存在することは示せただろう?そしてここでさらに、ワイングラスの問題が来る」

「ワイングラスがどうしたんだ?」

「あのグラスの様子を思い浮かべることができるか?」

「はっきりとできる」

「三人の男がそれで飲んだという話を聞かされた。ありえることだと思うか?」

「なぜ思えない?それぞれのグラスにワインがあった」

「その通り。しかし、滓は一つのグラスの中にしかなかった。君はその事実に気付いたはずだ。これで何かピンとこないか?」

「最後につがれたグラスに、一番滓が入りそうだ」

「そんなことはない。瓶はいっぱいだった。最初の二つのグラスがきれいで、三番目にたっぷりと滓が入るというのは考えられない。二つの説明ができる、そしてこの二つしかない。一つは二番目のグラスが注がれた後に瓶が激しく振られた。だから三番目のグラスに滓が入った。これはありそうもない。いや、ない、僕はこれは絶対ないという確信がある」

「じゃ、どう考えるんだ?」

「二つのグラスだけが使われた。そしてそのグラスの滓を三番目のグラスに注いで、そこに三人の人間がいたという間違った印象を与えようとした。こうすれば、滓は全部最後のグラスに入ることにならないか?そうだ、僕はこのとおりだと確信している。しかしもし僕がこの小さな出来事の真の意味を発見すれば、その瞬間、このありふれた事件は、とてつもなく目覚ましい事件に変化する。つまり、こうとしか考えられないのだ。 ―― ブラッケンストール夫人と彼女のメイドは意識的に嘘をついた。 ―― 彼女らの話は一言も信じられない。 ―― 彼女らは何か真犯人を庇う強い動機がある。 ―― そしてこの事件は彼女らの助けなしに解決しなければならない。これが目の前にある使命だ。そしてほら、ワトソン、シデナム行きの列車が来た」