ホーム>著者と作品
|
著者と作品 |
シャーロック・ホームズを生み出した作家サー・アーサー・コナン・ドイルは、医者として開業する傍ら、
小説を書いていました。初めての作品として知られている「ササッサ谷の秘密」を書いたのはすでに20歳の時で、その原稿料に励まされて、その後も色々な作品を書きましたが、多くは出版されることはありませんでした。
その後、船医見習いとして北極海に航行する船に乗り込んだり、医師の資格を得た後も、アフリカ西岸航行船の船医の仕事をしたりして、資金を貯め、1882年、23歳の時にポーツマス市で開業しつつ小説を書き続けました。
1886年3月、前年に結婚した27歳のコナン・ドイルは「緋色の研究」を書き始め、4月に完成します。
彼はこの作品を出版社に送りますが、3社までは出版を拒否されます。4社目のウォード・ロック社からの返答は、出版まで一年かかること、そして著作権をすべて買い取る形で25ポンドという厳しい条件でした。コナン・ドイルは印税にはならないかという手紙を送りますが、拒絶されます。やむなく、この条件を飲み、次の年ピートン・クリスマス年鑑の一作品として「緋色の研究」が出版されます。これこそ、世界に初めてシャーロック・ホームズが登場した瞬間でした。今日では、この「ピートン・クリスマス年鑑」は大変な稀少本となっており、とんでもない額で取引されていますが、「緋色の研究」の評判は今ひとつでした。
今日では、推理小説作家と見なされるコナン・ドイルですが、本人は歴史小説を本分と考えており、29歳に「マイカ・クラーク」を脱稿、「白衣の騎士団」を執筆していました。ところが、「緋色の研究」がアメリカの出版社の目にとまり、同じシャーロック・ホームズを主人公にした作品の執筆依頼が来ました。作者としては、「白衣の騎士団」が遅れる事にかなり苛立ちを感じたようですが、結局「四つの署名」を書き上げます。
コナン・ドイル31歳の1890年、「四つの署名」がリコンピット2月号に掲載され、同じ年に「白衣の騎士団」も完成します。すでに、開業医としても作家としても、それなりの経験を積んできましたが、大きな成果は得られず、コナン・ドイルは眼の研究をし、眼科専門医として開業する計画を立て、ウイーンに行きます。次の年の3月、ウイーンから戻ったコナン・ドイルは、ロンドンで眼科専門の医院を開業しますが、患者は全く訪れず、その時間を執筆に費やしていました。なかなか、安定した生活を得るには至らなかったのでしょうが、実は成功の足音はもうそこまで来ていました。
1891年、ストランド・マガジン7月号に、シャーロック・ホームズシリーズ初の短編「ボヘミアの醜聞」(7月号)が掲載されます。ストランド・マガジンは月刊誌で、長編を掲載すると途中から読み始める読者がついてこれず、短編を毎月違ったテーマで書いていくのは大変だったため、いわゆる「読み切り連載」スタイルを編み出したものと思われます。8月号に「赤毛組合」, 9月号に「花婿失踪事件」が掲載された時、すでにシャーロック・ホームズの人気は沸騰していました。
ストランド・マガジンは、小説や記事に挿絵を多用する事を売りにしていた雑誌ですが、
シャーロック・ホームズシリーズの挿絵画家として、
当時非常に人気の高かったウォルター・パジェットを起用しようとしたのですが、
手違いにより、依頼の手紙は兄のシドニー・パジェットが受け取り、結局彼が挿絵を担当することになります。
シドニー・パジェットは、その後もシャーロック・ホームズ・シリーズの挿絵を描き続け、
ホームズのビジュアル的な面を決定するのに大きな役割を果たしました。
現在、ホームズの代名詞ともなっている、インバネス・コートにディアストーカー(鹿打ち帽)というアウトフィットを生み出したのも、シドニー・パジェットでした。
それまで、あまり日の目を見なかったシャーロック・ホームズを爆発的にヒットさせた要因として彼の存在を忘れる事はできません。
|
年表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|